第22話.ブラジル、遠く広く

1989年9月、中村はブラジル、サンパウロのグァリューロス空港に1人で降り立った。出迎えに来てくれる予定の日系ブラジル人が、この国における唯一の知り合いだった。知り合いといっても、ブラジルから来日していた彼をある農業雑誌で知り、電話で連絡して5、6分面会しただけに過ぎず、「いつでも訪ねてきてください」というそのときの言葉だけが頼りだった。

1994年1月、ジャカランダ農場で
1993年1月、ジャカランダ農場で

ブラジルの2週間の滞在において、中村は数十軒のコーヒー農場を訪ねた。「農薬や化学肥料を使わずに栽培されたコーヒーを日本で販売したいと思っている」と通訳を通して伝える度に、「そんなことできるわけないだろう」という反応が返ってきた。中村はポルトガル語などそれまで聞いたこともなかったが、彼らが話すときのゼスチャーでそのことが分かってしまった。

「農薬を使わずに生産などできない」こうした応えは、日本で無農薬野菜の生産者を探しているときにもよくあったため、それほど気にはならなかった。それよりも、飛行機で24時間かかるブラジルまでの距離の遠さにうんざりしながら、中村はブラジルを後にする。結局、このときは、無農薬でコーヒーを作ってくれる生産者には一人も会えず、中村は産直活動の構想を語ることすらできなかった。2回目、中村がブラジルに行ったのは、1990年12月。今度はブラジリアでコーヒー栽培に取り組む日系人を通して生産者を探した。このときは「高く買ってくれるのなら、無農薬で栽培してもいい」という生産者と出会ったが、あまりにもお金を優先させるその考え方に中村は同調できず、「一緒にやってみよう」という気持ちになれなかった。

1992年、3度目のブラジルで、初めて中村は、コーヒーの無農薬栽培に取り組む3人の生産者と会うことができた。

帰国した中村は、この3人の生産者からコーヒー生豆の直輸入を開始する。無農薬でコーヒーを栽培する生産者と出会え、無農薬栽培の認定も出ている。販売するコーヒーの種類も増え、売上も順調に伸びた。無農薬コーヒーの産直もようやく実現したようだった。

しかし、この状態においても、中村は心底満足できていなかった。「モノとカネが流れているだけで、まだ自分の目指す産直にはなっていない。本物の産直を実現するためには、心の通じ合う生産者を探さなければならない」

中村は、再びブラジルへ向かう。


そして、ジャカランダ農場で

1993年1月5日、4度目のブラジル。中村がジャカランダ農場でカルロスと出会ったのはこのときだった。最初にカルロスと握手を交わした中村は「表情が優しい人だな」と感じた。

中村はまずカルロスに案内され、農場を歩いた。これまで見てきた無農薬コーヒーの栽培農場よりも土が柔らかく、スコップを使わなくても手で掘ることができた。それにコーヒー園全体に、様々な昆虫、チョウ、クモなど生き物が多く、小鳥の鳴き声が絶えない。

農薬と化学肥料を使う一般のコーヒー園では、レイチェル・カーソンの言う「沈黙の春」状態で、虫や鳥の姿も見えなかった。除草剤は、草だけでなく、土中の微生物やミミズまで殺してしまう。さらに、堆肥を入れずに化学肥料に依存しているので、ますます土は硬くなる。生き物が全く見当たらない世界に、コーヒーの樹だけが、殺虫剤や殺菌剤の力を借りて「立派」に育っていた。

ジャカランダ農場を歩いている途中、中村は農場スタッフと出会う。またしばらく歩いていると、遊んでいる子どもたちや農道を散歩するお年寄りを見かける。その度にカルロスは笑顔で彼らに語りかけた。そして「この子たちは、さっき紹介したシルビオの子どもです」「彼は私の子どものときからの遊び仲間で、親友です」というふうに、1人ひとりを中村に紹介した。

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「ジャカランダコーヒー物語」

ブラジルにて「不可能」と言われていたコーヒーの有機栽培を丁寧な土作りと「いのちを大切にしたい」という想いから成し遂げたジャカランダ農場。農場主の故カルロス・フランコさんとジャカランダ農場の軌跡をお伝えします。

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