いのちの映画祭 上映作品 『祝の島』 監督インタビュー

3月17日 いのちの映画祭(福岡)で「自然農」「祝の島」「第4の革命」が上映されます。

『祝の島』纐纈あや監督インタビュー
(2011年 5月 01日  カロンズネット)から転載

インタビュー 執筆: 田中 みずき

4月23日(土)から5月6日(金)にかけて、ポレポレ東中野で、原発・核実験に関する映画を集めた特集上映[25年目のチェルノブイリ]が開催される。本上映会は、2008年からオールナイト等で続けられていたものだが、今年は目黒区美術館で4月に開催が予定されていた「原爆を視る」展とコラボレーションを試み、例年より大規模に開催されることになった。「原爆を視る」展は、3月に起きた東日本大震災による福島第一原発事故の影響を考慮し中止となってしまったが、ポレポレ東中野の上映会は改めて原発について考える機会となるだろう。

上映作品は、原発跡地が舞台かと想像される、アンドレイ・タルコフスキーの『ストーカー』(1979年)などの劇映画や、ドキュメンタリー『ナージャの村』(本橋成一監督、1997年)、『ヒバクシャ世界の終わりに』(鎌仲ひとみ監督、2003年)等に加え、原子力発電所を作る際にPRとして作られた『原子力発電の夜明け』(森田実監督、1966年)や原発関連の新聞のスクラップを小沢昭一の軽妙なナレーションでまとめた実験映画『原発切抜帖』(土本典昭監督、1982年)、また、映画館ではなく、学校や地域のホールで公開されていたスライド作品『ひろしまを見た人―原爆の図丸木美術館―』(土本典昭構成、本橋成一写真撮影、1985年)、『チェルノブイリいのちの大地』(西山正啓構成、本橋成一写真撮影、1993年)など。

本インタビューでは、今回の上映作で2010年に完成した『祝(ほうり)の島』※1 の監督、纐纈あや氏にお話を伺った。本作は、約30年前から原発設立に反対している山口県上関町の祝島の人々を撮ったドキュメンタリー。祝島の対岸が上関原子力発電所の建設予定地となり、海の汚染を危惧してデモを行い続けている島民の日常を追う。綺麗な海で魚にやさしく話しかけるようにして漁をする漁師や、厳しい岩山を切り開いて耕された畑で細やかに作業に向き合う農家の姿、また夜に皆で集ってお茶を飲む老人たちや笑いを巻き起こす集会など、ゆるやかに流れる日々の生活の中で自然と反原発デモが行われる様子に心が掴まれる。

現在、東日本大震災による福島第一原子力発電所での原発事故を機に日本各地で反原発デモが行われるようになった。祝島の反原発デモは現在も続いているが、これを機に反原発デモの先駆例の一つとして見直したい映画だと考え、インタビューを行った。

―映画を観るまでは、反原発の活動ということで、緊張した状況の中で険しい表情でするものだと思っていたのですが、祝島では皆が本気で集りながらも、ゆるやかな時間の流れの中で自然にデモが行われていてびっくりしました。

監督: 島の人たちの原発反対って、ものすごく身体感覚に染みついているものだなあと思うんです。そもそも島での生活自体が毎日身体を使って働いているし、海と山に生かされているのも自分たちの身体だし、長年にわたって刻まれてきた身体の記憶というようなものがあると思うんです。島のおばあちゃんたちは、頭の中で理論を駆使して反対するのではなく、経験的・身体感覚的に「嫌なものは嫌」ってきっぱり言い切ってしまえる。今の現代生活の中では薄れてきている、自分たちを根底から支えるものが島にはある。だから私はものすごくあの島に惹かれたんだと思います。

―映画の中では、デモの様子も写されますが、島の人たちが海で漁をしたり、岩山を切り開いた畑で農業をしたりといった普段の仕事の様子や、おばあちゃんたちが夜に集ってお茶を飲んでおしゃべりする姿等、ゆったりとした生活の描写が丁寧に撮られていますね。

監督: 映画の中で、どうしてあんなに暮らしの描写にこだわったかというと、島の人たちが何を守ろうとしているのかを私自身が見たいと思ったからなんです。

何かを知る時って、大抵の場合、問題が起きてからそのことを知ることが多いですよね。そしてようやく、その場所に居る人を知って、情報やデータを得て、それぞれの立場の人の話を聞いて、それで問題を知ったような気になる。でも、一番知らなければならないのは、そういうことなのだろうかと思ったんです。マスコミには島の人たちの抗議行動ばかりが取り上げられて、何を守ろうとしているのかという、「何」の部分はいっこうに映し出されない。それは、今のマスコミにも、その情報を受け取る私達側にも、「知る」という行為において決定的に欠落している意識ではないかと思います。テレビだと、暮らしを撮るには長い時間がかかるし、分かりにくいし、オチはつきにくいし、OAの時間にも制限があったり、スポンサーがいたりという条件の中では、なかなか難しいわけですが・・・私はフリーなので。だから2年間とにかく島の暮らしにこだわって、ああいう地味ぃーな映画になりました(笑)。

―確かに派手な生活では無いですが、島の人たちの会話が面白かったり、長く生きてきたおじいちゃんやおばあちゃんの生活の様子がぐっと心に迫ってきたり、何気ないようでドラマチックですよね。デモそのものではなく、守ろうとしている生活を撮ろうと思うきっかけのようなものは何かあったのでしょうか?

監督: ある写真がきっかけですね。
初めて島に行った時は、自分が考えていた“原発反対運動”というのが悉く覆されて、次々とユーモア溢れる人が目の前に現れて、本当に楽しくて(笑)、なんだか映画の『男はつらいよ』の世界のように愛おしい人たちだと思っていました。そういう島の人たちと出会って、7年くらい経ってから、祝島の人たちの原発反対運動の写真を観たんです。そこには抗議行動の最前線の様子が写っていました。皆さん険しい顔をして中電と小競り合いをしているような現場の数々でした。それを観た時、本当に苦しくって。それと同時に、すごく悔しかったんです。というのは、「島の人たちの姿って、これだけじゃないよな」、と思ったからなんです。一番大切な普段の島の人たちの顔ってこれじゃあないなあ、と思って。島の人たちの普段の生活を見て、原発反対運動をする姿を観たら、きっと全然違う風に見えてくるとその時に思ったんです。

―この映画では、データを出して原発の悪影響を伝える啓蒙的なものとは違って、デモの状景もありながら、祝島の日常の「人の生活」というものが撮られていますね。映画を撮っている時には、「デモを撮ろう」という意識はあったのでしょうか?

監督: 祝島が原発に反対しているということは、皆さん知っていると思うのですが、島の人たちが何を大切にしているかを知りたいと思ったし、できることなら私もそれを大切にしたいという気持ちがありました。じゃあ島の人たちの大切なものって何だろうと考えたときに見えてきたのが、日々の暮らしだったんです。だから逆に、デモや抗議行動をどう撮っていけば良いだろうか、というのが私の中ではじめ、わからなかったんですよね。でも通い始めてわかったことは、島の人たちの暮らしの中の一部に原発反対運動がしっかりと根付いているということでした。今の暮らしを続けるということと、原発に反対するのはイコールなのだ、と。島の人たちはそのことを明確に意識しながら暮らしていて、週一回は集まってデモをして、何かあれば抗議行動を起こして、ということを自然にしていたので、デモも抗議行動もあの日々の暮らしの一コマに入れていくということだと思うようになりました。

だから抗議行動も、島の人たちと同じように動いていったという感じですね。私の中で、意識していたことは、どうやって島の人たちと同化できるか、ということで…もちろん島の人たちと完全に同化することはできないのだけれど、あの島の人たちそのものを映像で表現したいと思い続けていたんです。

島の人たちにとっての反原発への切実さは、言葉やデータ、ナレーション等では表しきれないとも思っていました。それを映像にどうしたら映し撮っていけるのか、ということを考え続けた撮影でしたね。それは日々の暮らしをただひたすら撮っていく以外にはなくて。あとは最後の最後にインタビューでお話しを聞くという形になりました。

―インタビューでは、実感のこもった印象的な言葉が続きますね。

監督: インタビューは、するつもりがなかったんです。言葉にしてしまうという事に対して、私の中では怖さというのがあって。例えば「原発に何故、反対しているのですか?」と聞いて、「これこれこうだから」と答えてもらったら、それでわかったような気になってしまうのが嫌だったんです。言葉からこぼれ落ちてしまう部分があると思うし、その言葉さえ出せば観ている人が納得できてしまうというような、そういう話しの使いかたをするのも嫌でした。だからインタビューは、自分の中では禁じ手にしていたんです。

でも、島の人たちとの関係性ができてきた時、島の人たちそれぞれが思いをしっかりと言葉にして持っているということに気がついたんです。だから情報として聞き出すとか、納得したいから聞くということではなくて、その人そのものの言葉として記録しようと思うようになりました。それまで、カメラを廻さないところでは何度も皆さんにお話しを聞いてきましたが、最後の最後でカメラを廻しながら話を聞いた時には、私もカメラマンの大久保(千津奈)も、「本当にそうだな」と自分たちに言葉のひとつひとつが染み込んでくるように感じました。そういう話を聞かせてもらえたというのは、自分たちにとっても大切な経験になりました。

―島には、『祝の島』を撮る前から行っていたのですか?

監督: 撮影のために通い始めたのは、2008年の3月からだったのですが、それ以前の2003年に私は本橋成一監督の事務所で働いていて、本橋監督の『アレクセイと泉』(2002年)※2 という映画の上映会が祝島であったんです。その時に行ったのが初めてでした。上関原子力発電所にずっと反対しているというのはその時に初めて知りました。閉鎖的な戦いの島だろうと勝手に思い込んで、どんな顔をして行ったら良いんだろうとか、自分に何かできるだろうかと思い詰めてすごく緊張して行ったのですが・・・島に降り立った途端、ぜんぜんイメージと違うんですよ。悲壮感の欠片も無い(笑)。「いよぉ、おねえちゃん、どっから来たー?」「あんた若いなあ。」「体大きいなあ。」「これ美味しいから食べてけ」って。島の人たちの顔を見ていたら、なんだかとっても信頼できる人たちだなというのを感じたんです。同時に、故郷というか懐かしい所に戻ってきたという感じがして。

―その頃から映画にしようと思っていたのですね。

監督: いえ、私は本橋さんの事務所であるポレポレタイムス社で5年ほど仕事をしていたのですけど、自分が写真や映画を撮るということを目指していたわけではなく、本当に事務スタッフとしていたので、自分で映画を作るなんて夢にも思っていなかったんですよ。

それでも、強烈に、「この島は面白いな。この島はきっと映画になるような所だな。」とは思って帰ってきて、その後も常に祝島のことは「どうなっているだろう」と気になっていました。

―今回、映画を撮ろうと決めたきっかけは何かあったのでしょうか?

監督:きっかけは、前にお話した、写真集を見たということと、その後の心境の変化ですね。ポレポレタイムス社を辞めて、しばらくOLに戻ったりしていたんです。本橋さんの事務所にいたころから、写真集を作ったり、上映会の事務局をしたり、本橋さんの3作目の映画『ナミイと唄えば』(2006年)ではプロデューサーをさせて頂いたりして、いろんなお仕事をさせて頂いていたのですが・・・ドキュメンタリーというのは人と関って、その人生に踏み込んでいくので、責任重大なことで、そのことに疲れきってしまったんですね。映像の世界にも向いていないと思って、事務所を辞めました。全然違う仕事をして、もう一度、自分が何をしたいか探そうと思ったんです。それで、大手の外資系IT会社に派遣で行って、毎日朝9時から夕方5時まで、きっちりその時間の中でとにかくパソコンに向って、隣の席の人にまでメール連絡、みたいな状況で(笑)、そんな仕事をしていたら、強烈に人と関りたいって思うようになっていました。

その時に、人と関るのって苦しみと喜び両方あってのことなんだな、って思うようになりました。わずらわしさや、面倒くささもあるけれど、人と関れる楽しさとか喜びとか、感動とか、そういうこと全部ひっくるめて人と関るっていうことなんだなぁ、って。その中で映像表現というのは、カメラを持っている者と写される人との人間関係の「関り」を表現できる媒体だということに気がつきました。

―映画と人との関りというのがあるんですね。

監督: 本橋さんの『アレクセイと泉』という映画に私はすごく影響を受けたのですが、もう一つ、ちょうどその頃に小川紳介監督の『満山紅柿 上山―柿と人とのゆきかい』※3 という映画を観たんですね。山形県の上山というところの干し柿作りを淡々と写している映画なんですが、カメラを廻していると絶妙なタイミングでいろんなことが起きてくるんです。それは、偶然撮れているということではなくて、監督がその村の人と土地ときちんと結びついて、居るべき場所で居るべき時に居るべきポジションでカメラを廻しているからこの瞬間がひきよせられてこの時間を撮ることができているんだ、と強く感じられたんです。その時に、「映像ってこういうことができるのか!」、と思って、良いなと思ったんですよね。それで初めて、自分で映画を作りたいと思いました。その映画のエンドロールが流れている時には「自分の映画を撮るならどこに行こうか・・・、祝島しかない!」、って思いました。5年前に、たった1回しか行ったことがなかったのだけれど、祝島なら私が撮れるものがある―というか、関りたい人がいると思ったんです。それが映画を撮るって決めた瞬間でした。そのすぐ後に本橋さんに「祝島のドキュメンタリー映画を作ろうと思うのですが・・・」と相談をもちかけて。そうしたら「やろう、やろう!」ということになったんです。

―映画の中では、島の人たちの生活に深く関わっていなければ撮れないシーンも沢山出てきますね。
例えば、おじいちゃんやおばあちゃんが夜に集ってお茶を飲んでいる時に、もう明日死ぬかもしれない、なんて自分の余命を予測しながらお喋りする一方で、自分の祖先や孫などを思って話をしていて、時間のスパンを長く持っていらっしゃるのが印象的でしたが…

監督: そうですね。私も編集をしている時に気付いたのですが、島のかたが皆、今はもう既にこの世にはいない人の話をしてくれるんです。連れ合いとか、お父さんとか、ご先祖とか。亡くなった人の話をしてくれるのと同時に、子供や、孫、これから生まれてくるであろう未来の子供たちのことも言うんです。そのことが皆さん共通していて。それって、今は目の前にはないいのちのことを話しているんだっていうことに気がついたんです。亡くなっているいのちと、まだ生まれてきていないいのちのこと。その綿々と連なるいのちの流れの中に、今の自分たちのいのちもある。その感覚をもって、島の人たちは日々暮しているのだと思いました。

今も福島第一原子力発電所のことで日々揺れているけれど、原発っていうのは、時間に対する想像力と、目に見えないものに対する想像力、その二つの想像力がないと、その怖さとか影響による被害がいかに深刻なものかというのを掴めないんじゃないかと思うんです。原発の放射能汚染というものも、自分の体に影響が出るのは10年後か20年後かも知れないし、自分には出なくても子供に出るかもしれない、次の代に出るかもしれないわけです。そして放射能というものも、目に見えないもので。匂いも味もしない、痛みもないわけで。長い時間でものを考えるということと、目に見えないものへの想像力が、現代社会が一番苦手としているもので、原発ってそこをついているものだなあと思うんですよ。今、一分一秒で時間を刻んで生きているけれど、何千年後か先のことを想像する感覚がないと、原発に頼っていて良いのかということも答えが出てこないと思うんです。祝島の皆さんが亡くなった人やこれから生まれる子供たちのことをさらっとお話していたことが、本当に凄いことだなあと改めて思うんです。

―映画を観ていて、こういう生き方ができるんだと思ったり、自分もいつの間にかそういう風に生きていなかったと気付かされて、はっとしたりしました。
映画の中では長年続くお祭り、神舞神事のシーンも出てきますね。

監督: クランクインが、お祭りの準備から始まったんです。この祭りを撮っておかないと、次回は4年後になるというので、とにかく祭りから撮り始めようと思って。神舞は今から約1000年前に京都の岩清水八幡から大分に帰る途中の船が難破して、その人たちを助けた際に島に農耕文化が伝わって島が発展してきたといわれています。

その1000年という時間の流れが脈々と生き続けていて、島の歴史の象徴のような気がしました。しかし、一時原発の騒ぎで中断したりもしたんです。12年間の空白が開いたわけです。祭りのことを記録されている文書というのもあまりなくて、復活するのには大変な苦労があったと聞きました。島の人たちにとっては、自分たちのルーツそのものであるようなお祭りなわけで、島での重要なこととして撮影しました。

お祭りは、海からカミサマが渡ってくるというのがとても印象的、象徴的で。島の暮しを見ていると、すべてのものが海からやってくるんですよ。それこそ情報も、物も、神様だって海を渡ってくるんです。海は生活の場所でもあり、交通網でもあり、聖なる場所でもあって。私は東京生まれ東京育ちなので海が側にある暮らしの体験がなかったのですが、島にいると、海は島と対岸を区切るものではなくて繋げるものなんだと実感しました。

―映画を撮り終わってから、島での上映の際にはどんな反応がありましたか?

監督: 映画が完成してすぐに見て頂いたのですが、すごく喜んで頂けました。会場に入りきらずに、廊下から見てもらったりした人もいたりして。

皆さんおおいに爆笑したり、「ああだこうだ」とスクリーンに向かって色々と言いながら、見入っていました。特に、嫁ぎ先の義父母が熱心に反原発運動をしていたノリちゃん(橋本典子さん)が、「(原発反対運動を続ける時には)お義母さんが背中についちょるような気がする」という話をした時には、会場にいる皆さんが全員一緒に泣いているように見えました。皆さんが、原発に反対し続けていながらも亡くなっていった沢山の人たちのことを思い出しているような気がしました。また最後のほうで、漁師の奥さんのエミちゃん(正本笑子さん)が「人間の心理というものは反対派も推進派も皆同じと思う。」「(原発設立問題が起きるまでは)兄弟みたいにしよったからね。だから原発問題は、人間の心をズタズタにする問題と思う。」と言ったときには、皆さんが深く頷いていました。未だに推進派と反対派との溝は深いものがありますが、でも辛いのはみな同じ、って言葉に誰もが頷いている、そう感じられました。上映中、観てくださっている島の人たちそれぞれの30年がスクリーンの前にぎゅっと集ったような瞬間があって、それは凄く重い時間でした。

上映が終わった後には、「あやちゃん、良くやってくれたなー!」って、握手してくれて、本当に嬉しかったです。

―ご自身の中では変化はありましたか?

監督: 映画を撮り終わってというより、島の人と出会って自分は変わったと思います。

震災があったその日から山梨で3日間上映をすることになっていたんです。さすがに震災当日は停電で上映できなかったのですが、車で東京を出て10時間かけて山梨に着いて、次の日は、「こういう時だがら上映会をしたい」と現地のかたが言ってくださって上映をしたんです。福島第一原子力発電所一号機の事故が報道されていて、菅総理が記者会見をするというので気になって一人で上映会場を出てニュースを見ていました。総理の言葉からは、なんの心も伝わってこなくて、それは今まで日本国民が「まあ、原発良くないとは思っているけど電気が足りなくなるから仕方ない」と思って積み重ねてきた行為すべてが、今、崩れ去ったんだと思ったんです。その象徴が総理の記者会見、あの生気のない我が国のリーダーの姿なのだと思えてなりませんでした。

そしてまた上映会に戻って、島の人たちがスクリーンに映しだされた時に、この人たちは、「一番大切なものはこれだ!」と絶対に手放さず、誰にも委ねないで守り続けてきて、聞き届けられなくてもあきらめずに言い続けてきて、だからこそ今の祝島の暮らしとあの美しい景色と、あの誇り高き島の人たちの姿があるんだなあ、って思えた。記者会見の総理の姿を見た後の祝島の人たちの姿は、鮮烈でした。

大切なものを大切なこととして自分できちんと認識して、しっかり手の中に握り続けることを私は島の人たちから教わりました。今は祝島になかなか行けないのですが、自分がしている一つ一つの言動が大切なものに繋がっているものでありたいし、自分を甘やかさないで、祝島の人たちに恥ずかしくない生き方をしなきゃと思っています。私が大切だと思って積み重ねていることが、廻り廻っていつか祝島に還っていくことを心から願っています。

(?2011年4月15日、ポレポレ東中野にて。)

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