原発とテレビの危険な関係を直視しなければならない

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【放送】原発とテレビの危険な関係を直視しなければならない
(2011年6月10日 朝日新聞) 金平茂紀

 この原稿は大震災発生からほぼ2カ月の時点(5月9日)で書いている。大津波は壊滅的な被害を残して一応「去った」が、原発事故はいまだ「現在進行形」だ。そこで本稿は、原子力発電所事故とテレビ報道の関係に敢えて絞って書き進める。それはこの問題にこそ、なぜ日本の原発が今回のような惨事を引き起こす事態に至ったのかを解くための、きわめて重要なカギが含まれているように思うからだ。とりあえず論点を整理しておく。

 (1)今回の原発事故の重大性、深刻さをテレビは伝えることができたか? メディア自身にとって「想定外」だったことはないか? 当初の「レベル4」という原子力安全・保安院発表に追随するような「発表ジャーナリズム」に疑義を呈することができていたか?

 (2)事故について解説する専門家、識者、学者の選定に「推進派」寄りのバイアスがなかったか? その一方で「反対派」「批判派」に対して排除・忌避するようなバイアスがなかったかどうか?

 (3)原発からの距離によって描かれた同心円による区切り(原発から何キロ圏内)を設定してメディア取材の自主規制を行っていたことをどうみるか? さらに各メディアによって設けられた取材者の被ばく線量の基準は妥当だったかどうか? 一方で、線量計を持参して原発至近距離までの取材を試みたフリーランンスの取材者をどのように評価するか?

 (4)「風評被害」の発生について、テレビはどんな役割を果たしたのか? パニックの発生を恐れるあまり、過剰に安全性を強調することがなかったか? 安全性を主張する際にその根拠にまで遡及して報じていたか?

 (5)「国策」化していた原子力発電推進について、テレビが果たしてきた役割を検証する自省的視点があったかどうか? 電力会社の隠蔽体質や情報コントロールについて批判する視点が担保されていたかどうか? 

 (6)テレビにおける過去の原子力報道の歴史を共有できていたか? 原発を扱うことをタブー視する空気にどこまで抗してきたかどうか? スポンサーとしての電力会社を「相対化」する視点がしっかりと確保されていたかどうか?

 (7)テレビに限らず、企業メディアにおける科学部記者、専門記者の原子力発電に関する視点、立ち位置が批判的に検証されてきたことがあるか? 何よりもテレビにおいて、原発問題に関して専門記者が育成されてきたかどうか? 記者が推進側と「癒着」しているような構造はなかったかどうか?

 以上の整理は、まだ生硬なものだが、論をすすめる意味合いで構成した。重複も多々ある。

●テレビが報じ損ねた原発事故の重大性

 (1)(2)について。結論から言えば、テレビは当初、今回の原発事故の重大性を報じ損ねた。初期段階では、大津波による壊滅的な被害状況に報道の関心が奪われており、そのこと自体はやむを得ない面もあっただろう。東京電力の地震発生後の第一報も緊急炉心冷却装置が働いて稼働が停止したというものだった。

 だがまもなく「外部電源のまるごと喪失」という最悪の事態が明らかになった後でさえ、テレビに登場していた「専門家」「識者」「学者」の大部分は、「圧力容器と格納容器は燃料を多重に封じ込めており大丈夫」「検出されている放射線量は、1年間そこに居続けても自然に浴びる放射線量よりやや高い程度で、ただちに健康に問題が生じる量ではない」「核分裂反応は停止しているから、チェルノブイリのような爆発は起こらない」等と「安全」言説を繰り返していた。ましてや、水素爆発が起きて建屋が破壊された後にあってさえ、そのような言説を主張し続けていた者もいた。私たちはそのことを実際にみてきた。

 問題は、なぜ「専門家」「識者」「学者」がそのような言説を繰り返す人々で占められていたのか、だ。私たちメディアの側が声をかけて出演交渉をしたのだ。その時、私たちはどのような基準で彼らを選んだのか。

 科学ジャーナリストの塩谷喜雄は原発事故後にあらわになった「権威への帰依」=「思考停止の風潮」を次のように激しく批判した。《メディアの解説に登場する「専門家」に求められているのは、見識や先見性ではない。あえて言えば、専門性ですらない。大学教授、研究部長などの「肩書き」である。肩書きは何の安全も保障しない。しかし、読者や視聴者を「権威」に帰依させることで、吟味や評価という面倒なプロセスは省ける》(月刊「みすず」2011年5月号)。

 メディア側が出演交渉の際に参考にしたであろう、或いは作成したであろう原子力の「専門家リスト」は、そのような人物たちで占められていた。(2)にあるように反原発派、原発批判派の学者や研究者、識者らはすでに出演者リストから外されていたとみるべきだろう。

 この「肩書き」「権威」のまやかしを厳しく批判していたのが、故・高木仁三郎だった。彼の立場=「市民科学者」という概念がいかに重要な意義をもっているかがわかる。生活エネルギーの本来の受益者である市民の立場に立った科学の在り方が問われていたのに、彼の死後、それに応えるような「権威を疑う視点」はメディア内部でどんどん弱くなっていったのだ。

 保安院の事故評価が「レベル4」という今から考えれば信じられないような「過小評価」をしていた理由は何だったのだろうか。事故評価が「レベル5」に引き上げられたのは地震発生から7日後、そしてさらに史上最悪の「レベル7」に引き上げられたのは32日後だ。この間メディア側はひたすら「発表」を待っていただけだった。海外の原子力関係機関が「レベル4」の評価を聞いて疑義を唱えていた事実があったというのに。

 当局=お上からの「発表を待つ」という思考の枠組みがメディア側に染みついていなかったか。保安院や原子力安全委員会には、電力会社側の「暴走」をチェックする監視役に自らがあることの意識の致命的な欠如がみてとれる。そもそもなぜ「保安院」が経済産業省「内」にあるのか、という根本的な疑問をメディアも提起してこなかった。

 要するに、原子力事業を進める上で「官―政―業―学―報」(元NHKの科学ジャーナリスト小出五郎の言う「原子力ファミリー・ペンタゴン」)の強固な構造が出来上がっており、その間には何の緊張感もなく、むしろもたれあい、相互チェックをする体制などなかったのだ。そのことをテレビ報道に携わる者は今からでも遅くないから(いや、もう遅いか)考えなければならない。

 (3)について。地震発生直後のシミュレーションにおいては同心円を描くことは一定の意味があった。原発から何キロ地点にどの都市が位置しており、どのような位置関係にあるかを知ることには意味がある。だがモニタリングによる一定の放射能に関する測定情報が入ってきて以降、同心円という線引きに実体的な意味はなくなった。実際の放射能分布は、同心円状にではなく、地形や風向きなどの要素によって不定形状にまだら状に拡散していたのであって、福島県内でいえば、南相馬市よりは飯館村や葛尾村の方がはるかに数値が大きかったし、福島市内の放射線量も結構高かったのだ。

 僕の知る限り、在京、および福島県内の主要メディアは原発から20キロ圏内、30キロ圏内、あるいは40キロ圏内の立ち入り、取材を制限、自主規制するという内規を決めた。僕の手元にはいくつかの在京民放の原発取材マニュアルや、新聞、通信社の同様のマニュアルがある。さらにはNHKの内部文書もあるが、民放各社は概ね、原発から30~40キロ圏内での取材を自主規制の範囲としていた。もちろん局によって運用に濃淡があった。また東北地方の民放各社は概ね東京のキー局の作成した内規、マニュアルに従った行動をとっていた。

 住民に対しては国が、20キロ圏内に避難指示、30キロ圏内に屋内退避または自主避難という基準を設けていたが、なぜメディアはそれよりも広めの基準を課したのか。ここが最も考究されなければならない点だろう。

 たとえばある在京キー局は、応援取材に入った系列局は「土地勘がなく、万が一の場合などは適切な避難行動が困難」なので、地元局は30キロ圏外は取材可、応援系列局は40キロ圏外というように差を設けていた。別のキー局は一律40キロ圏内を「立ち入り禁止」としていた。取材陣は地元住民と違ってすぐには移動が困難だ、との判断がその根拠だという。さらに別のキー局では、取材者に対しては「さらに慎重を期して」地域内住民の避難指示の2倍の同心円内での取材制限区域を設ける、とある。いずれの民放も自局の自主的な判断による規制だった。

●NHKが放棄した政府指示の相対化

 その意味で、NHK報道局が3月21日付で出した内部文書「放射線量についての考え方」は興味深い文書だ

 福島放送局長、仙台放送局長、水戸放送局長、本部関係各部局長あてに出されたこの文書には、民放各局の同種文書にはない次のような文言がある。《(政府は)今のところ、原発から半径20キロに出している避難指示と、20キロから30キロまでに出している屋内退避の指示を変更する予定はありません。我々の取材も政府の指示に従うことが原則です》《(NHKの原子力災害取材マニュアルは)……ひとつの参考データと考え、取材を続けるかどうかは政府の指示に則して判断することにします》。

 ここでは、報道機関としてのNHKが「政府の指示」を相対化する視点を完全に放棄している点に着目しなければならない。

 さらに但し書きの項目では年間許容被ばく量について言及しており、年間被ばく量を1ミリシーベルト以下に抑えるというICRP(国際放射線防護委員会)勧告の数値は、《「放射線は浴びないのに越したことはない」という極めて保守的な考えに基づいた値です》《放射線医療の国際的な考え方として、100ミリシーベルトまでは、ほとんど健康被害はみられないというのが一般的です》と断じていた。

 ちなみに民放の被ばく線量の基準では、あるキー局の場合、「年間積算が1000マイクロシーベルトまで」「時間当たりでは10マイクロシーベルトで会社に連絡をとり、30マイクロシーベルトでただちに取材中止」となっていた。

 フリーランスの綿井健陽は、事故直後の3月13日に福島第一原発の至近距離である福島県双葉町の原発正門前まで到達して取材・撮影したジャーナリストのひとりである。綿井の記録によれば、午前10時15分ごろ、双葉町役場前で線量計の針が振り切れ、同10時35分頃の双葉厚生病院内でも線量形の針が振り切れていたという(19・9マイクロシーベルト以上)。僕自身は、福島県内の飯館村取材中に瞬間値で6マイクロシーベルトを記録したことがあった。

 このようなフリーランスの行動を「無謀」と批判する声がある一方で、圏内に住民がいるのに取材活動を自主規制することは報道の責務を放棄するに等しいという反論が聞かれた。

 企業メディアの枠内で長年仕事をしているジャーナリストの鳥越俊太郎も避難指示区域内の原発正門前まで到達したひとりである。彼は次のように言う。《私が問題だと思うのは、日本のメディアがこのエリアに警察の同行以外で入って取材しないことです。戦場取材も危険です。でも、戦場には記者もカメラマンも入ります。なのに、放射能となるとなぜ全員右へならえで自己規制してしまうのか? なぜ? 私は今はゴーストタウンと化したこのエリアをテレビカメラで取材し、いくつかの報道番組に声を掛けました。しかし、「うちで放送する」と言ってくれた局は一つもありませんでした。ふぬけですね》(毎日新聞4月18日付朝刊)。

 鳥越の主張には一定の論拠がある。先に引用した綿井氏がイラク戦争当時、バグダッドにとどまり、バグダッド陥落で国外退避した日本の主要メディアを尻目に現地取材を敢行した事実と二重写しに思えてくるのは僕だけではないだろう。

 結果的に「横並び」に陥る企業メディアの行動様式は、記者クラブ制度に対するフリーランスからの批判の構図とよく似ている。記者の取材にはリスクが常にともなうものだ。問題はそのリスクを最小化しようという企業防衛の論理が報道の論理=ジャーナリズムを凌駕することが当たり前のようになっている日本の現実なのだ。時間の経過とともに、同心円状の区切りに従った取材規制は運用上で破られて、NHKを含めてすぐれた圏内取材の成果が放送された。

 (4)について。「風評被害」は情報の真実性と伝播速度を関数として、心理的な恐怖心との相乗効果によって生じる。放射能汚染は目に見えない。また健康被害の持続時間や程度もよく理解されていない。それで野菜や魚介類の出荷停止や家畜の受け入れ拒否という事態が起きる。

 ところが発表されるのは「通常の○○○倍という数値の放射性物質が検出された」という事実だけなのだ。「この程度なら直ちに健康に害を及ぼすものではない、安全だ」と、メディアが「専門家」を介してメッセージを発する際に、その主張の根拠にまでさかのぼって安全性が報じられていただろうか。この点が心許ないのだ。この報じ方に関する懇切丁寧な「配慮の欠如」こそ、市民の不安感、不信感を増幅させたものだ。何を根拠に安全だというのかに市民が疑念をもつのは当然のことだ。その点で私たちテレビは大いに反省する余地がある。

 (5)(6)について。この点が実は今回の原発事故報道を検証する際に最も重要な論点であると僕自身は考えている。テレビ報道と原発との関係を直視する根源的な姿勢の見直しが必要だと思う。前記の小出五郎氏の「官―政―業―学―報」の原子力ファミリー・ペンタゴンの実情の一端に触れて惨憺たる思いを抱いたことにも関係がある。

 特にひどいのが「学―報」の原子力行政との癒着ぶりだ。原子力学会は日本学術会議にも属さない畸形的な組織であり、原子力開発推進を唯一の存在目的とした「利益団体」だとの声が聞こえてくる。そこに今回テレビに出てきた「専門家」「識者」「学者」たちが属していた。「自主・民主・公開」の原子力三原則が唱えられていた時代の学会とは全く別物に変質したのか。

 そしてメディア、なかでもテレビ報道のなかの原発を担当する記者の多くは、旧科学技術庁記者クラブ担当、いまでは文部科学省記者クラブ担当となっていて、テレビ局の場合は、実際、科学部系の記者が少ない。だが、それ以外に原発報道にからむ記者たちは、経済産業省・資源エネルギー庁担当の記者、経済部の電力会社担当の記者、さらには経済団体担当の記者たちが関係してくる。それに加えて、テレビ局営業の電力会社担当者、編成局の広告代理店担当者らがさまざまなレベルで絡んでくる。

 だが、僕らの先輩や先達たちは過去、勇気をもってテレビ報道の場でいくつかの試みを行ってきた。その結果いくかの不幸な出来事が起こった。

 なかでもNHKには過去、原発問題を扱ったすぐれたドキュメンタリー作品やテレビ報道があった。前出・小出五郎氏のNHKスペシャル「あすへの記録・耐震設計」(1977年)は、それらの秀逸な作品のなかのひとつである。中部電力浜岡原発内部の取材を中心に地震に対する耐震がどの程度考慮されているのかを検証した作品だ。このなかで地震学者・石橋克彦氏(神戸大学名誉教授。当時は東大助手)の警告が先駆的に取り上げられている。小出氏によれば、担当上司はとてもビビっていて、タイトルを「中性的なもの」に変えさせられ、さらに内容面でもいくつかの注文をつけられたという。

 広島テレビの岡原武氏のドキュメンタリー「プルトニウム元年」3部作は、地方の時代映像祭で大賞を受賞するなどきわめて評価の高い作品だ。被爆地・広島の視点から原発問題を直視した鋭角的な視点がきわだつ。

 放送前の社内プレビューで社長が「内容が一方的だ。君らこれを放送するんか」と言い放ったという。放映から1年後、岡原氏と上司の報道局長、プロデューサーら4名がそろって営業局に配転された。電力会社はCM出稿をストップした。電力会社の第二労働組合がかなり露骨に局に抗議を申し入れてきたという。岡原氏の件はあまりにも露骨なケースだ。岡原氏はそれから丸10年間、報道現場から外された。以降、広島の地から原発問題を正面から扱う番組はほぼ消滅した。原爆はOKだが原発はNOとされたのである。

 毎日放送の深夜ドキュメンタリー「映像.08」で、小出裕章さんら原発に異議申し立てをしている京都大学の学者たちの生活や活動を扱った作品「なぜ警告を続けるのか」は08年10月に放送された。放映後、同局内ではちょっとした騒動が起きたが、広島テレビのような露骨な事態には至らなかった。電力会社からCM出稿1カ月差し止めもあったという。この作品を実際に見る機会があったが、一体何が問題なのか。むしろ誠実なつくりの作品である。

 一般論でいえば、報道内容にスポンサーが不当に介入したとなると、アメリカでは憲法に保障された表現の自由への侵害、報道の自由への挑戦と受け止められ大問題になり、場合によっては訴訟という事態になる。ところが日本ではそうならない。事実関係の誤りであるならば訂正のしようもあるが、そのような趣旨の抗議ではないのだ。原発推進に対しては異論を許さないという一方的な姿勢の押し付けなのである。

 いずれのケースでも、共通していることがある。電力会社、あるいは「国策」の主体である「国=お上」の意向を酌んで具体的に動く人々がいて、直接間接に制作現場、あるいはその周囲に圧力を行使する。それは多くの場合、広告代理店、営業・編成部門、会社・組織の上司や管理職、同僚、後輩、場合によっては労働組合、番組審議会委員、そして最終的には、一緒に働いている人間との人間関係の破壊という形をとるのである。私たちはそろそろこの「抑圧の構造」を直視しなければならない。報道の現場において何が守られなければならないのか、を考えなければならない。

●原発を後押しした記者に責任を問う作業が必要

 最後に(7)専門記者の育成はきわめて重要な課題だ。中途半端な、あるいは不正確な知識に基づくコメントや解説は取り返しがつかない影響を視聴者、読者に与える。幸い僕が勤務する局には、地震や火山噴火、気象、原発事故に関して基本的な知識を提供できる専門記者たちがごく少数ながらいた。だが、多くのテレビ局のなかにはそのような人材が全くいない局もある。

 本誌と同じ朝日新聞社から、僕がテレビ報道の仕事を始めた1977年に、ある本が発行された。『核燃料 探査から廃棄物処理まで』という本で、著者は朝日新聞科学部記者(当時)の大熊由紀子氏だ。先輩記者から「これはまあ教科書のような本だから一応目を通せ」と言われるほど影響力があった本だが、今、読み返すと、推進側に偏した内容がきわ立つ。

 《原子力発電所が、どれほど安全かという大づかみの感触には変わりはない。あすにでも大爆発を起こして、地元の人たちが死んでしまう、などとクヨクヨしたり、おどしたりするのは、大きな間違いである》《私は、原発廃絶を唱える多くの人たちが書いたものを読み、実際に会ってみて、彼らが核燃料のことや、放射線の人体への影響などについて、正確な知識を持ちあわせていないことに驚いた。多くの人たちが、アメリカの反原発のパンフレットや、その孫引きを読んだ程度の知識で原発廃絶を主張していた》。

 同じく元朝日新聞論説主幹の岸田純之助氏は、日本原子力文化振興財団の監事をされていらっしゃる。これらの人々に今、聞いてみたい。今回の福島原発の事故をどのように思っているのか、と。自分たちのかつての言説に対する責任をどのように感じているのか、と。

 その作業は、戦後まもなくの頃、吉本隆明らが行った知識人の「転向」研究と性格が似ているのかもしれない。だが、誰かがやらなければならない作業だと思う。なぜならば前項で記したように原発推進に異を唱えた人々は、ことごとく迫害され排除されてきた歴史があるからだ。

 私たちの国の歴史で、「戦争責任」がついにうやむやにされてきたように、「原発推進責任」についても同様の道筋をたどるのか。歴史はやはり繰り返すのだろうか。

(「ジャーナリズム」11年6月号掲載)

   ◇

金平茂紀(かねひら・しげのり)

TBSテレビ執行役員(報道局担当)。1953年北海道生まれ。1977年TBS入社。モスクワ支局長、「筑紫哲也NEWS23」編集長、報道局長、アメリカ総局長などを経て2010年9月より現職。著書に『テレビニュースは終わらない』『報道局長 業務外日誌』など。

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