いま、水俣病 と 原田正純医師から学ぶこと

固い信念と温かい人柄が、患者さんの心の支えになっていた。
水俣病研究の第一人者、原田正純氏死去
自分だけの豊かさや便利さを優先し、
そのしわ寄せを受けた人々を切り捨てた

(共同通信 2012/06/12)から抜粋

 胎児性水俣病など水俣病研究に取り組み、患者の早期救済を訴えてきた医師で熊本学園大水俣学研究センター顧問の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市の自宅で死去した。77歳。鹿児島県出身。

 熊本大大学院に在籍していた1961年夏、初めて熊本県水俣市で被害者を診察、その悲惨な生活にショックを受けた。以後、一貫して水俣病研究に取り組んだ。

 64年、胎盤は毒物を通さないという当時の通説を覆し、胎児が有機水銀中毒になる胎児性水俣病を研究した論文を発表し、大きな衝撃を与えた。65年に同論文で、日本精神神経学会賞を受賞した。

 一連の水俣病訴訟では患者側証人として出廷し、複数の症状の組み合わせを求める国の認定基準を批判し、より広く認定するよう訴えた。

 熊本大助教授などを経て、2002年には熊本学園大で「水俣学」講座を開講。05年、同大で「水俣学研究センター」を立ち上げセンター長に就任し、医学以外の視点からも水俣病研究を先導し続けた。
 ブラジルや中国など海外にも足を運び、水俣病の疑いのある患者を発見した。

 著書も多く、「水俣病」(岩波書店)は英語、韓国語などに翻訳され、問題を世界に広く伝えた。「水俣が映す世界」(日本評論社)で大仏次郎賞を受賞した。

「差別が根本原因」と指摘 患者の心の支えにも 

 「自分だけの豊かさや便利さを優先し、そのしわ寄せを受けた人々を切り捨てた」―。11日死去した 原田正純氏は水俣病の原因企業チッソや行政の責任を問う一方で「人を人と思わない差別こそ、水俣病の根本的原因だ」と指摘してきた。その固い信念と温かい人柄は、救済を求める患者の心の支えとなった。

 熊本大大学院生時代から「胎児性水俣病」を研究。被害の実態を明らかにするとともに「チッソは有機水銀が原因と気付いてからも排水を流した。行政はそれを放置し、本格的な被害調査すらしなかった」と国やチッソを痛烈に批判。一連の水俣病訴訟でも原告患者の証人として証言した。

 複数の症状の組み合わせを求める水俣病認定基準も「医学的に誤り。基準に合わなくても、明らかに水俣病とみられる患者が大勢いる」と厳しく批判した。「水俣病では当たり前のことが、なぜ当たり前と認められないのか」と憤った。

 ただ、原田氏は「権威を振りかざす一部の専門家が行政に加担し、認定基準をゆがめ、多くの患者が救済の枠から外れた」として、専門家にも水俣病問題の責任の一端があると考えていた。

 そうした苦い経験から、原田氏は“水俣病の権威”と呼ばれるのを嫌い、行政から研究費を受け取るのも好まなかったという。また、カナダや中国などで水俣病とみられる患者を発見したことを悔しがり、「世界で水俣の悲劇が繰り返されつつある」と警鐘を鳴らしていた。

「水俣病の伝道者」 関係者から惜しむ声 

水俣病の早期救済を訴え続けた医師 原田正純さん(77)が死去した11日夜、熊本県内の水俣病関係者は故人の死を惜しんだ。

 一連の水俣病訴訟で原田さんと原告の患者を支える活動をしていた熊本大の富樫貞夫名誉教授は「患者に学ぶ道を一貫して歩んできた。水俣病が広く知られていないころから論文の発表や講演を繰り返してきた姿はまさに水俣病の『伝道者』だった。大きな穴がぽっかりとあいた思いだ」としみじみと語った。

 原田さんがかつて教授として勤めていた熊本学園大の丸山定巳教授は「ついに力尽きてしまった。患者の立場になって医学的知見を活用していた原田先生がいなくなってしまったことは大きな痛手だ。未認定患者救済など、まだやり残したことがあったはず。残念だ」と悔しがった。

 同大水俣学研究センター長の花田昌宣さんは「水俣病患者に寄り添った人を亡くした。残念でならない。今はそれしか言えない」と言葉少なだった。

(共同通信)


原田正純 水俣 未来への遺産
(2012年11月4日 夜10時 NHK)

半世紀にわたって水俣病に向き合い続けた医師・原田正純さんが、今年6月、急性骨髄性白血病で亡くなった。77歳だった。今年7月、水俣病の特別措置法に基づく被害者救済の申請受付が締め切られた。公式確認から56年。最終解決を目指すとされる国の救済策が閉ざされる一方で、なお多くの潜在的な被害者が残るとみられている。こうした現状に一貫して警鐘を鳴らし続け、常に患者に寄り添い続けたその人生を通して、原田さんは私たちにさまざまなメッセージを残した。

原田さんは、昭和35年、熊本大学の大学院生だった時から水俣病に関わり始め、亡くなるまで50年以上、常に現場に足を運び、水俣病患者を診てきた。昭和37年には、母親の胎盤は毒物を通すことはないとされていた、当時の医学界の常識を覆して、母親の胎内で水銀に冒された「胎児性水俣病」を証明した。以降、胎児性患者の人たちとのつきあいは亡くなるまで続き、一番の相談相手であり続けた。1軒1軒、未認定患者宅訪ねて、掘り起こしにも取り組んだ。

水俣病以外にも食品公害・カネミ油症や三池炭鉱爆発事故による一酸化炭素中毒など全国各地へ足を運んだ。さらにはブラジルやカナダの水銀汚染、ベトナムの枯れ葉剤被害など、世界各地の現場にも向かった。見えたのは「加害者は圧倒的に大きな力を持つ企業や行政であり、被害者は弱い立場に置かれた住民」という社会のひずみだった。

平成21年に水俣病の特別措置法が成立すると、不知火海沿岸住民の大規模検診を呼びかけ、埋もれた被害者の存在を訴えた。原田さん自身、胃がんや食道がん、脳梗塞など、何度も重い病気を患ってきた。それでも現場に足を運び、患者と向き合い続けた。

番組では、NHKが長年にわたり記録してきた原田さんの映像と、その志を引き継ぎ、活動を続ける人たちへの取材を通して、医師・原田正純さんの人生とその言葉を振り返り、原田さんが問い続けたもの、私達に残したものを見つめ直す。

(語り)上田早苗アナウンサー



水俣から21世紀へ 原田正純 講義録

はじめに

 僕が大学に入ったときは脳のことを勉強したくて神経精神医学に入ったのですが、たまたま私が入った時期は水俣病の原因がわかった時で(1959年)、水俣病と出会ったのです。水俣と出会わなければ今頃父を継いで、田舎の医者になっていたでしょう。水俣との出会いにより、世界が広まったし、よかったと思っています。
 まず最初の患者さんに出会って「さあ、どうする」とつきつけられたのですが、何をすることもできない、何をしてよいかも分からない。では、その時を記録したビデオを見てください。

(VTRより)
まず猫が狂いました。これが狂っている様子。これが猫踊りと言われた症状で、村の人は「猫が自殺した」といった。これは、漁師の方。運動が円滑に行かない。運動失調、共同運動障害の状態。通常では、複数の筋肉が一緒に動いて体が動いているが、共同運動障害が起こると、通常しているようには体が動かせなくなる。完全にできなくなるわけではないが、なんとなくぎくしゃく、ふらふらしているでしょう。だから、障害の程度がわかりにくい。また、視覚障害によりふらふらする場合もあります。日常生活における細かな動作がぎくしゃくしてしまい、網をつくろったり魚を揚げたりができなくなり漁師さんたちは漁ができなくなってしまいました。

この子は5歳で発病し、20歳で亡くなりました。一番重症で十何年間、鼻からチューブを通して生きました。あるジャーナリストは「生きる人形の告発」といって、ドキュメントをかきました。動かないわけじゃないけど、ほとんど目が見えない。

胎児性水俣病

 胎児性水俣病は、胎盤を通って子供が中毒になるということです。同じような年に生まれた子供たちがたくさん、障害をもって生まれてきたわけです。その時は脳性小児麻痺と診断されていたが、原因が何かがわかっていなかった。メチル水銀だと睨みをつけたが、それを証明するのが難しかった。当初は水俣病の原因もわかっていない状態で、生まれた時の水銀値など測っていないから診断が遅れてしまった。

 このころは障害がいかにひどいかを強調したが、この子たちは研ぎ澄まされた感性を持っている。確かに知能は悪いが直感、センスは抜群にいいのです。

 当時毒物は胎盤をとおらないと考えられていたため、胎児性という概念すら存在しなかったのです。このような現実をつきつけられて、あなたならどうしますか。私たちは本当にとまどいました、ただ呆然としていました。逃げる方法だってありました。何も病気は水俣病だけじゃないのだから、他の病気の専門家になってもよかったのです。だけど、僕は逃げませんでした。

水俣病の発見

 1956年5月1日、水俣病が正式に発見されました。これは熊大が水俣病を発表したファーストレポートです。注目してもらいたいのは、写真に出ている患者がみんな子供であることです。環境汚染の影響を真っ先に受けるのは、子供や年寄りなど弱いもの、生理的弱者だということです。このレポートをみて、チッソの病院の院長が保健所に届けたのです。その日が5月1日でした。今は、この日に市が慰霊祭をするようになりました。

 これは、報告第1号の患者の家です。ごらんのように窓からサカナがつれるくらい海のそばの家です。自然の中に自然と共に生きていますね。このような人たちが環境汚染の被害を真っ先に受けます。そして自然と共に生きている人々は、世界中で大体において貧しい人ですね。生理的弱者とともに社会的弱者も環境汚染の被害を受けやすいのです。環境被害のしわ寄せというものは弱者にまず来るということを、一つの教訓として水俣病は私たちに示しています。

 この子が今の家の子です。この子は2歳11ヶ月で発病して今日まで生きています。もう50歳に届こうとしています。しかし彼女は発病以来、全く言葉を失い、自分でごはんを食べることもトイレに行くこともできない全面介護です。ただ毎日窓から海を見て、にやにや笑ってよだれを流している。両親も亡くなり姉が面倒をみているけれど、それはもう大変です。しかし私たちにとっては、この人は非常に大切な人である。この人が生きている限り水俣病の問題は終わらないのだから、みんな一生懸命長生きすることを願っています。見えても、聞こえてもいるようですが言葉を一言も発しないです。逆にいうと仏さんのようです。

ハンター・ラッセル論文との出会い

最初は、何の病気かわからなかった。患者の特徴を見つけるため症状を分類したら、視野狭窄やしびれなどが特徴的に見られました。患者はばたばた死んでしまい、解剖をさせてもらうと、やられ方に特徴があることがわかった。脳のうち強くやられるのは、視覚・感覚・運動の中枢です。類似の症状を世界中の病気から探し始めました。すると、イギリスの有機水銀汚染の症状が浮かび上がってきました。水俣病の原因究明を決定的にした、ハンター・ラッセル論文との出会いです。そこで水銀を調べてみると、魚、ヘドロ、人の髪の毛、死亡者の臓器の中からも大量の有機水銀が発見されたのです。ここまで2年半かかりました。

厚生省はこの間、「海の魚が全部有毒化した証拠がない」として食品衛生法を適応しませんでした。これは例えば、仕出し弁当を食べて食中毒になったとする。今では食品衛生法でその弁当は販売禁止になるだろう。これが水俣の場合は、弁当の中の原因が唐揚げなのか、刺身なのか、わからないからまぁ一時食べていいと言っているようなものです。水俣病の拡大に対して、行政に何の責任もないといえるでしょうか。

自然界における生物濃縮

工場の中でアセトアルデヒドを作る時に、触媒として水銀を使います。その水銀がメチル化して、工場の排水口から海に流れ出したのです。これは不知火海の写真です。海は広いため、毒が希釈されます。それで毒は毒でなくなるというのも事実です。しかし同時に自然界の中には、薄まったものを濃縮する働きもありました。

つまり、毒が魚の中に濃縮されていったのです。水俣にはたくさんの魚が住んでいます。この魚たちが死なずに生き残り人間や動物がそれらを食べたから、水俣病が起こったのです。どうせなら海の魚が全部死んでしまえば(中国の吉林省のように)、水俣病は起こらなかった。しかし、水俣の海が豊かすぎておいしい魚がたくさん生き残ったというのが悲劇なのです。

当時の患者の生活

 不知火海の様子です。不知火海沿岸の漁村は非常に険しいところにあります。国道から漁村に入るには、山越えをしなければならず、人々は水俣から船で行きました。そして漁村では冷蔵庫もなく、魚は食べる分だけ捕りました。この周りに住んでいる人々は、当時ほとんど同じものを食べて暮らしていました。

1人患者が出るということは、周りの人々すべて患者の恐れがあるのです。また田んぼもないため、当時は芋と魚しか食べ物がなかった。そういう暮らしが水俣病の背景にあったことを知らなくてはなりません。それが原点なのです。

公害の原点

水俣病はなぜ公害の原点と言われるのでしょうか。世界で公害はたくさんありますが、産業による環境汚染が起こり食物連鎖を通して公害病が発生した例は、水俣が初めてだったのです。当時「水俣病」という病名を変えようという署名運動が起こりました。患者には居場所がありません。僕は学会で強く反対しました。ただの「有機水銀中毒」としては、水俣以外の「有機水銀中毒」と区別がつかなくなってしまいます。これでは、水俣の教訓を残すことができないのです。水俣病の固有性を理解するべきなのです。

原因究明への阻害

 熊大医学部が原因解明までに2年半かかったと言いましたが、これはラッキーな方です。下手すれば迷宮入りになった可能性はたくさんあった。なぜなら、熊大医学部はチッソのことは何も知らなかったのです。チッソ内部を一番知っていたのは、工場の技術者です。しかし彼らは、原因が明らかになることによってチッソが不利益を被ると思い、協力でなくむしろ妨害をした。今考えれば原因を早く突き止め、対策を早く打ったほうが、損失は少ないはずです。そのことを当時はわからなかったのですね。

患者の立場

 原因解明でめでたしめでたしと思われていましたが、その陰で患者さんたちは見事に閉じこめられた。家にこもって出てきませんでした。熊大の先生は来ないでくれ、と言われたのです。なぜか、どうしてもわかりませんでした。患者は何も悪いことをしていないのに。(スライド)これは、当時の患者さんたちの家の写真です。なんというあばら家でしょうか。その上、魚を食べないと生きていけないのです。本当にショックでした。ここに人が住んでいると想像できますか?このような家に住んでいる患者さんたちは、私たちの来訪を拒んでいました。

胎児性のヒントをくれた母子との出会い

その理由を探してふらふらしていたとき、ひとつのヒントに出会いました。ある日2人の子供が道で遊んでいました。母親に「2人とも水俣病か。」ときくと、「兄は水俣病だけど、弟は脳性小児麻痺だ。そう診断された。」と答える。まったく同じ症状なのにそんなおかしなことがあるかと思って詳しく聞くと、弟は「生まれつき」この症状で、つまり水俣の魚は食べていないのだから「水俣病」ではないのだということです。一端納得しました。なぜなら当時は、胎盤を通じて毒物が胎児に伝わるとは考えられていなかったのですから。

しかし母親は次のように言ったのです。「わたしはそう思いません。先生考えてみてください。魚をみんな、一緒に食べた。一緒に食べた主人は水俣病で死んだでしょう。一緒に食べた上の子は発病したでしょう。私も食べたが、私は元気だ。私の食べた水銀はおなかの中のこの子にいったから、下の子も発病したのでしょう」

それも説得力あるなと思った時に、母親に「あの村に行ってごらんなさい。そこでは、この子と同じ年に生まれた子供はみんな脳性麻痺ですよ。そんな馬鹿なことってありますか。」と言われました。そして行った先が、先ほどのビデオの子供たちの村です。これを見た時僕はショックでした。十人の小児水俣病に七人の脳性小児麻痺と、村の子供は全滅ですよ。しかしショックであったと同時に、確信を得ました。毒が胎盤を通って中毒が起こるということを。胎児性水俣病を何とか解決しようと決心した、運命の出会いでした。

胎児性水俣病の証明に至る

自分は世界で初めて胎児性水俣病を発見したと思っていましたが、実はみんな気づいていました。しかし、他の人も行き詰まっていました。何が行き詰まっていたかというと、

(1)小児科:一般の小児麻痺との違い
  →脳の幼い時にやられるとみな同じような症状になるため、行き詰まる
(2)神経内科系:水俣病との共通点
  →視野狭窄や感覚障害は患者の協力がないと調べられないため行き詰まる
(3)疫学:同一症状で同一疾患
  →疫学条件(発生率、発生時期、発生分布など)から原因を特定するのに成功

(1)も(2)も行き詰まり、みな動物実験を始めた。しかし私は動物実験は嫌だったのでやらなかった。そこで気がついたのは、患者がみんな同じ表情だということです。疫学条件により原因を特定するのに成功しました。全く同じ症状で同じ病気だということを第1段階として認め、第2段階として発生率が非常に高く、発生の時期と場所が水俣病と一致している。そのように疫学的条件を積み重ねて、水俣病だと証明したつもりだった。

当時は疫学はあまり重視されていなかったため、誰も認めてくれなかった。しかしその後、たまたま私の診ていた子供の一人が死んで解剖をした。その結果、世界で初めて胎盤を通して起こったメチル水銀中毒だということを証明できたのです。

子宮は環境

他に何か証拠はないかと探しました。髪の毛の中には、大きくなると水銀なんて残っていません。探しに探しました。そしてついに、「へその緒」が証拠になることを突き詰めました。このことで、「子宮は環境」「環境汚染は、子宮の汚染」ということが分かりました。子宮を汚染するということは、次の世代の命を奪うということです。この教訓を、胎児性水俣病患者達は教えてくれていたのです。

これは現在の例えばダイオキシン問題でも同じです。これをみてください。無機水銀は胎盤を通さないのです。しかし、有機水銀は胎盤を通してしまいます。なぜでしょう。それは、有機水銀がもともと自然に存在しない物質だったためです。胎盤は、子供を毒物から守りつづけてきたため、人類は今まで生き残ってきました。

ところが自然界に存在しない化学物質が誕生したとき、胎盤はどう対応してよいかわからないのです。だから取り込んでしまう。ダイオキシンや環境ホルモンの問題も同じです。このたったの100年間の間に、大量の自然界に存在しない化学物質が合成されてきました。これがどういうことなのか、ということをもう一度考えてみてください。

新潟水俣病からの教訓

 新潟で水俣病が発生したとき、我々はびっくりしました。1959年に水俣病の原因がわかったのに、その6年後に同じ工場が何も処置をせずに同じ毒物を流し、そして同じ病気を起こしたからです。行政は一体何をしていたのでしょうか。しかし、新潟水俣病は予想外の効果をもたらしました。新潟では、疫学調査により水俣病像をつくっていった。汚染されたと思われる人たちを母集団ととらえ、継続的に調査することにより、最終的に水俣病という病像を作っていったのです。

ところが熊本では最初から判断条件を作り、その条件にあうものを水俣病とした。これら2つは、全然意味が違います。これが、水俣病の3番目の山場です。第1が、原因究明。第2が、胎児性の発見。第3が、水俣病の見直しです。しかし、第3は今日においても不十分です。なぜなら、母集団20万人を調べなくてはならないからです。しかも、今日まで行政はその調査をやっていません。

専門家の果たす役割

 今年の4月27日、実に20年もかかって大阪高裁で行政責任を認めさせたのに、環境省は上告してしまった。このあと何年かかりますか。患者はもう死んでしまいますよ。私たちが裁判の中で争ってきたことは、被害の実態を明らかにすること、責任の所在を明らかにすることの二つの問題です。

 被害の実体を明らかにすること、これは医学的な目的です。しかし、それによって困る人々もいます。その人々は、被害の実体を明らかにさせないようにします。何をもって水俣病と診断するかが争われてきました。これが水俣病裁判を30年かからせた原因です。

その中で専門家の果たす役割が問われてきます。専門家といわれる人たちは東京・中央にいて、患者を見もせずに「それは違う」などと判断をする。「自分は聞かれたから答えただけだ」といっても、聞かれたからといって専門家として言ったことは一人で動き出すのです。それをひっくり返すのに30年もかかるのです。

間違っていたならば、そう言って謝ってもらわなくては困る。それが、専門家は言いっぱなしで責任を取ろうとせずにきた。専門家が意見を言うことによって、その意見が行政にとりこまれて、制度として固定していく。それが間違っていた場合のことを考えてみてください。一度権威者が言ったことをひっくり返すことにどれだけの力が必要となるか、分かりますか? その大変さ、つまり自分の意見のもつ影響力をを専門家は理解しなければならないと考えます。

 あとは、被害の実態の解明をどこから行うかです。それは、今から起ころうとしているところを調査する。そうすれば、一番軽い、一番最初の水俣病が見られるはずです。熊本の水俣の場合はひどすぎた。底辺を明らかにすることは、世界に出て、今から起ころうとしているところを見てまわるしかないのです。

世界の水銀汚染と日本のもたらす影響

 世界の水銀中毒を少し見てみましょう。

これはアメリカの例です。水銀で消毒された種麦を豚に食べさせて、その豚を食べた。そのために子供たちが重症になりました。お母さんはその時妊娠していて、アメリカで唯一の胎児性水俣病患者が生まれたのです。アメリカでも、被害を受けるのはやはり貧しい人たちです。彼らは、床にこぼれた麦を拾ってきたのです。

 カナダインディアンです。カナダ政府はあそこに人はいないというが、ネイティブの人たちがいるのです。インディアンの人たちの髪の毛の水銀値を調べると、夏は高く、冬は低い値が出る。これは夏に魚をたくさん食べ、冬にはあまり食べないからです。ネコの実験でネコも水俣病になった。そして人間の調査も行い、私たちは「人間も軽いが水俣病は起こった」と結論を出した。しかし、カナダ政府は日本政府に問い合わせて政府の水俣病の診断基準を当てはめたため、カナダでは水俣病は起こっていないことになってしまった。

 これは、アマゾンのジャングルで金をとっている場所です。金をとりだす過程で無機水銀が蒸発し、それを吸った労働者が無機水銀中毒になります。しかしそのずっと下流で、魚を食べて暮らしている漁師がいます。彼らの髪の毛の水銀値を測りましたが、かなりのひどい症状でした。何をもってミニマムなメチル水銀の影響とするかということで、ここでも議論が発生します。その際に、「日本はどうしたのか」ということが必ず出てきます。つまり、水俣病は日本だけの問題ではなく、世界の問題と関わってくるのです。

 私は、世界中で水銀中毒の患者に会ってきました。どこの国でも、社会的、生物的な弱者に被害が現れていました。ともすると、絶望的になります。しかし、子供たちの笑顔に僕らは救われるのですね。子供たちの未来を私たちは考えなくてはならないと思います。

「この子は宝子」

 ユージン・スミスのこの写真は、川村ともこさんという胎児性水俣病患者です。22歳まで生きましたが、その間一言も言葉を発しませんでした。だけど、母親のよしこさんはこの子を宝子だといいます。本当に大事に大事に育てました。「この子が私が食べた水銀を全部吸い取ってくれた。そのために、私は元気です。そしてそのあと5人の子供が生まれたけれど、みんな元気です。この子は我が家の災い・水銀を全部一人でしょってくれた。我が家の命の恩人です。」といいます。

また、母親はともこさんを22年間抱きっぱなしです。あとから生まれた5人の子供たちの面倒も見られず、生みっぱなしだった。しかし、「弟・妹たちはこのお姉ちゃんを見て育ち、自分のことは自分でやる、協力しあう、優しいいい子に育った。それはこのお姉ちゃんの姿を見たからだ」というのです。何でこの写真を撮らせたのかときくと、「よかじゃなかですか」という。あっけらかーんとしているんです。

命のもつ意味

僕は、人間の価値・命を考えるとき、思い出すのはこの子です。写真の中のこの子は、何一つできなかった。ひと言も言葉は発せられないし、動くこともほとんどできませんでしたが、この子の存在のもつ意味はものすごく深いものです。22歳の短い生涯でした。しかし、どんなにか命のもつ意味を世界に教えてくれているでしょうか。

水俣からみなさんへのメッセージ

いったい、私たちは環境問題を何のために勉強するのでしょうか。僕は、命を守るため、弱い人のため、だと考えています。決して権力や大金持ちのために環境問題を勉強するわけではないと思います。これが、水俣からのみなさん若い人たちへのメッセージと思ってもらえればありがたいです。

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