セヴァンから、教師たちへのメッセージ

2001年11月29日に、ウルスラ・フランクリン高校にて、教師たちへ向けて行われたスピーチです。

夏休みに私が学んだこと〜アマゾンの熱帯雨林で過ごした2ヶ月

 若い人々の学びを助ける先生たちのグループに、今日ここでお話しできて本当にうれしいです。とても光栄に思います。
 私はイェール大学4年生で生物学を学んでいますので、学生の立場から、そして同時に、自然を愛する者としてみなさんにお話ししたいと思います。
 私は幸運なことに、成長過程において自然の中でたくさん色々な経験をすることができました。わたしはブリティッシュ・コロンビアで育ちました。ヴァンクーバーでは海岸や公園や森にしょっちゅう遊びに行きました。私は、三年生の時に海辺に遠足に行き、干潟で生き物やエコシステムを観察したことをよく覚えています。その後ずっと私は、海洋生物学者になりたいと思っていました。
 私は小学校時代の大部分をトロントでも過ごしました。私の家族は週末になると、レスリー・ストリート岬やペトログリフ公園や周囲の田舎に遠足に行きました。
 ある時、先生がまだら蝶の幼虫を捕まえてきて、教室に持ってきて私たちに見せ、ヤマニンジンの葉っぱをえさとして与えました。私たちはイモムシがさなぎになり、そして蝶に変わっていく様子を観察しました。それは信じられないような出来事でした。私はそのときの情景を生涯忘れないでしょう。
 これらの経験が私の中の、自然への愛情、畏敬の念をはぐくみました。私の自然に対する好奇心、興味関心は生涯変わらないでしょう。
 そしてまた、これらの経験があったからこそ、私はアマゾンの熱帯雨林での私の最初の経験を素直に受け入れ、心から楽しむことが出来たのだと思います。
 8才の時、私とアマゾンで生きるものたちとの最初のつながりが出来ました。私の父はアマゾン流域を撮影する旅に出ており、かなり長い間、ヴァンクーバーの家族とは連絡が取れませんでした。
 やっと森から出てきて父が電話をくれました。父が熱帯雨林に住んでいる素晴らしい人々−カヤポ族のことについて母と話していたのを覚えています。その時私は、まだ森のなかで生活している人がいるのだ、ということを初めて知りました。ビックリ仰天!私はもう何百年も前に人類全体が森から出てしまったのだと思っていたのです!信じられませんでした!そしてワクワクしてきました!というのは、世の中まだまだ発見すべきことがあるということがわかったからです。
 私の両親はパイヤカンという名のカヤポ族のリーダーと友達になりました。彼は巨大な水力発電ダム建設を阻止するために闘っていました。そしてパイヤカンの働きのおかげで、ダム建設は止まったのです。ダム建設阻止が成功した後、パイヤカンは私たちを、アマゾン低地シングー渓谷の奥深くにある彼の小さな村に招待してくれました。
 その旅は、一生消えないほどの影響を私に与えました。妹と私は旧友に再会し、その他のカヤポ族の子どもたちともすぐ友達になりました(私たちがお互いの言葉をわからないことは、なんの障害にもなりませんでした)。カヤポ族の人たちは私たちに多くのものを見せてくれました。どうやって電気ウナギをつかまえるか、どうやってツクナレに矢をいかけるのか。どこに亀は卵を隠すのか。
 かれらは私たちを森に散歩に連れていき、新鮮なパパイヤを切って昼ご飯にしてくれました。私たちは川で泳ぎ、岸辺では人々が小さなピラニアを釣っていました。私たちはカヤポ族と同じように、何千年も同じようにして生きてきた人々に習って暮らしました。
 アウクレでのそのときの経験は私の心に永久に刻みつけられました。そのときに見た生物多様性と熱帯雨林の美しさが、自然界についてもっと知りたいという私の願望に火を付けました。そしてその後、私は何年間も生物学を研究することになるのです。
 しかし、所詮私たちはその世界の人間ではありません。やがて私たちがそこを去る日がやってきました。小さな飛行機が舗装されてない小さな滑走路に降り立ち、私たちを乗せて飛び立ちました。森林をはるか後に、レデンカオの都会にむかって。
 しかし、森の端の方を見ると、なんと森が燃えているのです!夢中で森を見下ろすと、大きな火の手があちこちに上がっていて、そこから煙が渦巻いて上っているのが見えました。すぐに飛行機も厚い煙に巻き込まれました−太陽に向かってまっすぐ目を開けられるほどでした。煙は飛行機の中まで入り込んできました。
 この飛行経験が私の人生を変えました。たったいま、信じられないような美しい世界が存在する事を知ったばかりなのに、その直後にそれが燃えているのを見ることになるなんて!。その火事の背後には経済的な理由があったのか、それともほかの何があったのかは知りません。−私はただただ納得できませんでした。

 私はカナダに戻り、ヴァンクーバーで5年生になりました。私は自分が見てきた素晴らしい場所の事を友達に話しました。そしてさらに、この素晴らしい世界は消滅しつつあるのだともいいました。彼らも自分たちの「環境」に問題が起こっているということは聞いて知っていました。私たちは、一体なにが起こっているのかもっと知らなくては、という結論に達しました。そして私たちは小さなクラブを結成し、それをECO(環境子ども組織)と名付けました。
 私たちはどんな事でも、私たちに教えてくれる人にはどんどん声をかけていきました。そして私たちはいろいろと小さなプロジェクトを始めました。私たちは地元の海岸掃除をしました。サラワクのペナンの人たちのためのチャリティーイベントに出かけていって、かれらの村の水に使うフィルターを買うお金を集めるお手伝いをしました。というのも森林伐採でかれらの小川が汚染されてしまったからです。
 地元の青年組織の助けで、私たちは定期的にニュースレターを発行しました。同世代の子どもたちと、私たちが学んだ情報を分かち合うためです。実際私たちは多くの事を学びました。ECOの活動は大変楽しいものでした。私たちはいつも積極的で、楽しみながら(母はいつも話合いの時にはクッキーをくれました)、絶えず新しいこと、とても興味深いことを学んでいました。
 11歳のとき、私はどうやらトップの政治家や各国首脳が集まって世界最大規模の会合が開かれるらしいという噂を家で耳にしました。どうやらブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開かれるらしい。国連は、この会合で20世紀の残された期間の方針を決め、また21世紀に向けて、より持続可能な生き方につながるようなものにこの会合がなることを望んでいました。私は、この会議の結果によってもっとも利益をうける、または苦しむ結果になるのは私たち(子どもたち!)なのに、この会議には若者の代表がだれもいないことを知りました。
 私は両親に「ECOこそ子どもたちの代表としてブラジルに行くべきだ!」といいました。そして両親は「おまえは頭がおかしい。会議には3万人もの人たちが参加するのだ。動物園みたいなもので、人の間でもみくちゃにされるのが落ちだ。」といいました。でも私はとても頑固だったので、友達と私は周りの人々にこの考えを訴え続けました。すると、突然みんなは私たちにカンパをしてくれだしたのです!母は、私が実はどうやってお金を工面したらいいのかわからないのを知って、また、案外これはいいアイディアかもしれないと思ったらしく、私たちを助けてくれるようになりました。
 私たちはお菓子を焼いて売ったり、持っている本を売ったり、アクセサリーを作って売ったりしました。母はどうやって資金集めをするのかを教えてくれました−どうやってものを売る場所を借りるか(場所代のお金がないときに)、どうやってイベントをビラやポスターで宣伝するか、等。両親たちは私たちに、どうやって私たちの主張に人々の耳を傾けさせるか、スピーチの方法をコーチしてくれました。資金集めのイベントや、地元の人たちの支援もあり、私たちは5人の代表をリオに送るのに十分なお金を集めることができたのです!ラッフィ(ヴァンクーバー在住の子どもの歌手)さえ私たちの強力な支援者になってくれて、私たちと一緒にリオに行きました。
 両親の言ったとおり、リオは動物園みたいでした。覚えている方もおられるでしょう。町はきちがいじみていました−リオの中心街は軍隊が一杯、市内ではいろんなイベントが繰り広げられていました。私たちはNGOグローバルフォーラムのブースを一つ借り、興味を示してくれる人になら誰にでも声をかけました。機会があればどこででもちょっとしたスピーチをしました。いつでもインタビューに応じ、質問に答えました。
 そしてとうとう、リオ滞在の最後の日、最後の瞬間に私たちはあの最高のときを迎えたのです。ユニセフ議長だったグラント氏が、「あの子たちも全体会に参加させるべきだ」とサミット議長のモーリス・ストロングを説得してくれて、私たちはそこでスピーチをするよう言われました。地球サミットの会場に向かうがたがた揺れるタクシーの中で、半狂乱になって原稿をなぐり書きしたことをいまでも覚えています。私と他の4人のメンバーは、なんとか私たちが世界のリーダーたちに言いたいことすべてを一つのスピーチにまとめようとがんばりました。私たちは警備の人たちの間をすり抜けてセッション会場に駆け込みました。大きい会場一杯の重々しい代表の人たちを前にしてあがってしまう時間さえありませんでした。私は自分のスピーチを始めました・・・。
 私は自分が12歳であること、何が私にとって大事であるかを話しました。私は森や海が大好きだということ、そして、健康であるためにはきれいな空気や水が必要であることを話しました。私は自分の将来に対して恐怖を抱いていることを話しました。「あなた達は経済界の指導者としての義務や官僚的な政治家としての義務より、まず親として、祖父母としての義務を果たしてください」といいました。「あなた達の下す決定が誰に影響を及ぼすのか思い出してください」といいました。「一番影響を受けるのはあなた達の子どもたちなのです。」と。
 スピーチが終わったとき、人々は立ち上がって歓声を上げました。驚くほどの反響がありました。政治家、各界の代表、ドアマンまでが目に涙をいっぱいためて、本当に大事な事を思い出させてくれてありがとう、と私たちにいいました。私のスピーチはサミット会場がある建物全体と国連で再放送されました。
 私がカナダに戻ったとき、すべては一変していました。私は世界中のありとあらゆるところから講演依頼を受けました。前は人に話すチャンスを得るためにあれだけ苦労したのに、いまや私や友人たちが若者代表として様々な会議に招待されるのですから、本当に信じられません。
 私たちがやり遂げたいと言い続けていたことを本当に実現できるなんて、だれが想像したことでしょう。
 すべてはアマゾンの森の火事を見たときに始まったのです。そこで強く何かを感じたのです。その出来事は私に強さをくれました。私に、外に出て小さなグループを組織し、何かをやろうとするたくましさをくれたのです。そして、いろいろなことをやり続けるなかで、私の人生は大変豊かになったのです−たくさんの勇敢で刺激的な人たちに出会うことができました。

 それ以来、私はたくさんスピーチをしてきました。リオ・サミット以来、世界中を駆けめぐって、大人たちにはこれからの世代のために環境と世界の資源をまもってくれるよう、そして子どもたちには勇気を出して声を上げていくよう、一生懸命語りかけてきました。1997年には国連のリオ+5に参加するよう招待されて、再びリオに戻りました。これは92年のリオ会議の成果を振り返るための会議ですが、今回は私は自分の主張に耳を傾けてもらうのに苦労しなくてすみました。私はモーリス・ストロング、ゴルバチョフ大統領、ルバース(オランダ)、トーレ(マリ)その他大勢の人々と共に、地球憲章委員会のメンバーとなったのです。
 今でも私は委員会のメンバーとして活動しています。この地球憲章は大変有効な環境教育教材になると思います。私はカナダで環境保護の側面を強く打ち出した、テレビの子ども向け科学・自然番組シリーズ "ネイチャーズ・クエスト" のホストも務めました。この話は、ECOが繰り返し主張してきたことの正しさを証明してくれるように思います。あなたは効果を上げることができるのです。人々にあなたの主張を聞いてもらうことは可能なのです。
 12才の時から色々なことがありました。私は大学の4年生で、生態学と進化論的生物学の学位を取得中です。科学を探究しているわけですが、生命の偉大な多様性を生み出し、私たちを生かしている地球のシステムについて知れば知るほど、わたしと自然に対するつながりが深まっていくことを感じます。
 同時に私は、私たちが偉大な多様性を本当に失いつつあることを繰り返し繰り返し思い知らされます。そして私の生物学に対する好奇心と畏敬の念が大きければ大きいほど、人間が作り出しているこの生活様式がバランスを破壊していることに気づかせられるのです。そして私は大変悲しくなります。
 私はいつもアウクレに帰りたいと思っています。同時に私は帰るのが怖くもありました・・。
 私が最初にかの地を訪ねて以降、私は経済学や資本主義やグローバリゼーションといった存在について知りました。また先住民族の文化や知識が消滅しつつあることも。私はおそらく石器時代からの知恵に頼って生きてきた人々に対するプレッシャーがあまりに大きく、彼らの生活が変わってしまったのではないのではないかと恐れていました。
 また、何年間か大学で過ごして、私は教室での研究にウンザリし始めていました。生物の授業は有機化学やら統計やらをたくさん使って確かに面白いのですが、時々、そとの自然界に対する直接の好奇心をどう満たしていいのかわからなくなるのでした。私はちょっと幻滅し、私が大学を卒業したあと、それ以上本当に研究者の道を究めたいのかどうか、わからなくなっていました。
 今年の夏、私にアマゾンに戻る機会が訪れました。大学で私は4年生の研究プロジェクトに対する奨学金制度を発見し、アマゾン調査ステーションでのインターンシップに申し込んだのです。その調査ステーションは9年前にパイヤカンとT大学の教授によって設立されました。私が12年前に訪れたアウクレの村の川を数時間さかのぼったところにあるのです。
 私は奨学金を得、この夏カヤポ村に戻りました。私はドキドキしていました。でも、飛行機が赤土の小さな滑走路に舞い降りて、たくさんのボディ・ペインティングをした人々が私に会おうと駆け寄ってきたとき、私はこの人たちが今でも熱帯雨林で堂々と生き続けていることがわかりました。
 私のフィールドワークの最後の日、ブルドーザーが入ってきました。ビリビリと私はいつもと同じ小道を歩いていたのですが、突然、森を貫く高速道路が出現したのです!!上流の木材伐採業者が村まで行く必要から、私の調査の対象の保護区の真ん中を貫いて道路を造ってしまったのです。
 破壊が迫ってくる光景を目の当たりにして、わたしは世界中の生物多様性の豊かな地域が同じような破壊の重圧を受けているのだと思いめぐらしました。そして、そのような地域の保護の緊急性と同時に、私たちはアマゾンの自然が存在するうちに、緊急に出来るだけのものを学ばなければならないと今更のように思い知らされました。
 この地域で活動する他の研究者や教授たちと調査を続けるうちに、私は再び学問として生物学を探究してみたいと思うようになりました。次々に疑問が湧いてきて、まだまだ学ばなければならないことがたくさんあることがわかったのです。 アマゾンでの私の先生たち、バスチャンやビリビリやツィマーマン博士の助けで、私は自分でこのような結論を出すことができたのです。
 私がこの話をしたのは、経験がどのように一人の人間の人生を形作っていくのかのよい例だと思ったからです。また、私が自然の中での経験からどれほど多くの事を学んだかをお話ししたかったのです。そして、たくさんの他の人々からも、私は多くの影響を受けたことを強調したいと思います。特に先生方から私は多くの影響を受けたのです。
 高校で、私はラウル先生という超エコロジストの先生に教わりました。その先生はいつもゴミの山に飛び込んで行き、教室の中で古い自転車を直したり、学校の生ゴミを堆肥にするコンポストを作ろうとがんばったりしていました。そしていつもキチラノ高校の中で環境を大事にしていない所を見つけては、大声で文句を言っていました。
 かれは他の人と違うから「おかしな人」と思われていましたが、一方、いつも私たちがその先生の言動に着目していたことも事実です。先生はいつも自分の信念に忠実でした。そして私は今、自分が先生のそんなところを見習っていると思います。先生はものすごく私たちを愛していて、私たちに一番よい未来を与えたいと思っていてくれたのです。
 ラウル先生が私の妹の担任だったとき、先生はキューバとの交換留学の制度を始めました。そして妹がキューバから戻ったとき、どれだけ多くの事をその経験から学んだか、一目でわかりました。音楽とその魂。共産主義と資本主義、そして世界における経済的不平等という現実。
 10年生の時、私はTREKという学校プログラムに参加しました。それは1年間のプログラムで、最初の半年の間に、私のクラスの60人の子どもが、一年分の学習カリキュラムを教室で勉強してしまいます。その一方で、別のクラスの60人の子どもはその間、野外活動を行うのです。どうやってカヤックをこぐか、どうやって泳ぐか、どのようにCPRを行うか、自然の中で生きのびるにはどうすればいいか。また、そこでは地理や歴史、詩なども学びます。半年経つと二つのクラスでカリキュラムを交代するわけです。
 教室で勉強している半年間は、いわゆる普通の学校によくあるような感じで、教室の中では仲良しグループに別れてしまい、子どもたちは大してやる気もなく、 中には授業をサボったり、なにもまじめにやらない子どもたちもいました。私も、最初の半年間には余り知り合いが出来ませんでした。
 ところが、カリキュラムが入れ替わった途端、私たちは小グループに分けられ、問題に立ち向かわなければならなくなりました。やり抜くためには同じグループの仲間同士、支え合うしかありません。変化は劇的でした。それまで一度も冗談さえ言ったことのないクラスメートが、突然キャンプファイアーの周りで皆に話を始めたことが一再ならずありました。いままでスポーツを本格的にやったこともない子どもたちが、スキーを履いて山を登るのです。
 こんな事でもなければ、決して友達にはならなかったであろう子ども同士が、一緒にイグルーを建てました。本当に意外な人がリーダーシップを発揮することがよくありました。そのような才能があるとは自分でさえ思ってもみなかった、もっとも内気な子どもたちが、しばしばリーダーとして活躍しました。
 その一年間のクラスによって、きっと多くの子どもたちの人生が変わったとおもいます。私の親友の何人かはこの10年生の時にできました。この親友たちも私と同じように、これからも自然と共に歩む人生を送っていくでしょう。
 私は戸外での活動に熱中していた先生たちと先生たちの自然への愛を忘れないでしょう。先生たちは自分が愛したものを、他の人にも教えたかったのです。もちろん、ラウル先生や、TREKクラスの先生たちは、いつもなんだかんだと理事会ともめていました。TREKプログラムは生徒たちに大変人気があったにもかかわらず、いつも非難にさらされていました。私はラウル先生やTREKの先生たちに、先生たちの努力が今、結実していることを知って欲しいと思います。学校での彼らの努力によって、私は学んだのです。
 私はアマゾンでのこともお話ししていますが、それは、アマゾンでの経験から、自分たちが環境について学んできた方法について、より深く考えるようになったからです。カヤポ族の人々が環境について学ぶのは、それらの知識がないと毎日生きていくことができないからです。食べ物が欲しいとき、私たちはスーパーマーケットにいきます。カヤポ族にとって、森こそがかれらのスーパーマーケットなのです。
 ある日、ビリビリと私が森を歩いているとき、私はかれに「メベンノクレならだれでも森を知っているの?」と訪ねました。かれは「もちろんだよ。メベンノクレなら誰だって森について知っているよ」と答えました。彼らは森に頼って生きているから、森についてよく知っているのです。
 ここカナダでは、80%以上の人が都市に住んでいます。私たちはもはや自然を知っているとは言えません。それ故、私たちは自然を無視し、自然をいじめてしまうのです。私たちは、自分たちだってカヤポ族と同じように、森や川が存在し、それらがきれいだからこそ生きていけるということを忘れているのです。
 でも、カヤポ族でもカナダでも教わることの中身はそう違ってはいないでしょう。学校の科学の時間に最初に習うもののひとつに水の循環があります。水はこの惑星をぐるぐる循環しており、その水は私たちみんなが何度も何度も飲む、その同じ水なんだということです。私たちはまた、私たち自身の体も65%が水でできていると習います。ですから私たちは水を供給してくれる、自然のシステムに依存しているのです。
 もう少しあとになると、先生たちは私たちに元素について教えます。特に私たちが呼吸する酸素という元素について。そのすぐ後で、私たちは光合成についても学びます。このプロセスによって、植物は私たちが吐き出した二酸化炭素から、私たちのために酸素を作ってくれます。だから私たちは息をするためにも、自然のシステムがなくてはならないのです。
 これらは私たちが学校で習う基本です。あなた達がここで教えていることです。自然は偉大な教材です。すべての生き物の間のバランスは見事に相関性を持ち、相互に依存しています。だから1つのことを理解するためには多くの事を学ばなければならないのです。
 私たちがどれほど身の回りの環境と相互に依存しあっているかを子どもたちに理解させること、私はこれは重要な鍵だと思っています。
 自分たちを生かしてくれている生命のシステムから切り離された状態で育てられたら、私たちは自然を守ろうなどと思わないのではないでしょうか?知らないもののために、どうして立ち上がれるでしょうか?愛していないもののためにどうやって闘えるでしょうか?
 Dudar先生から、教師のみなさんに今日お話をするよう依頼を受けたとき、大変光栄に思いました。あなた達教師のみなさんは、大変重要な方々だからです!
 まず、大人としてのみなさんにお話ししたいと思います。あなた達の日々の行いが、地球と子どもたちの未来に影響をあたえます。次に親としてのあなたたちへ。あなた達は子どもたちの守護者たるべき地位を与えられています。最後に先生として。あなた達は社会の規範を教え、若い心を教育する人たちです。あなた達は重要な役割を担っています。あなた達は多くの人に影響を与えます。あなた達は、人々が世界について学ぶのを手助けするのです。
 私は、私たちの世代が人類が今まで持ってきたのと同じような関係を自然に対して結べる最後の世代ではないかと感じて、恐ろしくなります。私たちはインターネットやコンピューターを通して何でも学べます。子どもたちはますます外にでることなく立てこもり、ますます多くの人が都市に住むようになります。この社会は、まるでじぶんたちは自然なんかなくても生きていけるとでも思っているように見えます。このような自然からの分離は、私たちが不安を感じながら生きている理由の1つとなっています。
 どうかあなたの生徒たちに、自然に対する意識を芽生えさせてください。自然を教材として使ってください:科学、芸術、歴史、経済、政治――何を教えるときにも。そして、彼らに尋ねてください。地球の自然のシステムがなければ一体、世界はどうなってしまうだろうか、と。
 この不安定な世界の未来はどのようなものだろうか?地球外で生きていくためには、生命維持のために、どんなシステムを作り出さなければならないだろうか?
 子どもたちは先生の言いたいことをすぐにわかるでしょう。でもそのためには子どもたちは身をもって自然を経験しないといけないのです。おそらく、あなた達はすでに教室でこのような事を実践されているかもしれません。
 あなた達の中の何人かの努力によって、この学校のカリキュラムに初めて環境教育部門ができたとついさっき聞きました!環境に対する教育がいちばんであることを私は身をもって体験しています。環境への知識こそが、人間が生きていく上でいちばん役に立つ、大切なことです。あなた方の前向きな取り組みに感謝します。
 私たちは、カヤポ族のように直接学べる森がすぐ手近にはありません。だから私たちは自然界について学校で学ばなければならないのです。
 あなた達は、大人・親・教師という3つの立場において、重大な責任を負っています。

 大人として、あなた達は若い人たちのお手本となります。
 親として、あなたはあきらめるわけにはいきません。
 そして教師として、子どもたちの興味をかき立て、教室に自然を持ち込んでください。

 努力を続け、大きな未来像を私たちの意識の中に描いてみせてください。私たちは自然と関わりを持ち続ける社会を作っていなくてはなりません。教師として、あなた達はその点で非常に大きな影響力を持っています。
 子どもたちに自然への理解や畏敬の念を教えることに、人類の生存がかかっているといっても過言ではありません。子どもたちに自然を理解させるための、あなた達のすべての取り組みに感謝します。


翻訳:株式会社ウインドファーム