2001年11月29日に、ウルスラ・フランクリン高校にて、高校生へ向けて行われたスピーチです。
今日の集まりのオープニングでお話しさせていただけることを大変光栄に思います。本日のワークショップについて読ませていただきましたが、大変興味深いものばかりで、多くのものを学べるだろうと期待しています。
今日の討論のテーマは持続可能性です。この言葉が意味するものはなんでしょうか?「環境と開発に関する世界委員会」による公式の定義では、持続可能性とは「将来の世代が自分たちの必要を満たすために使いうるものを犠牲にすることなく、現在の必要を満たすこと」ということになります。
あなた達は、自分たちの生活の仕方は持続可能ではない、とすでに思っているかもしれませんね。あなた達は環境について心配しているからこそ、ここに参加しているのですから。
人類はまるで無限に供給され続けるかのように資源を使い尽くし、一方でまるでそれが自然に消滅するかのように、ゴミを環境の中に放出し続けています。
そのかたわら人口は増え続け、その中のある人たち(北アメリカ人たち)はもっと、もっとと消費しつづけています。
テレビや新聞でこれらの問題に関する調査結果や、人間が自然界にダメージを与え続けている具体的事実を見せられると、簡単にくじけてしまいそうです。本当にショッキングです。落ち込んでしまい、何をやってもムダなのだと思ってしまう若者たちもいるでしょう。
だけど今日、私はあなた達に、この環境保護という難問に立ち向かうことでどんなに私の人生が豊かになっているかということについてお話ししたいと思っているのです。そして、持続可能な社会に向かって進んでいくということがどれほど貴重で価値のある歩みであるか、どうやってそのことに気づいたか、ということにも触れたいと思います。それから私がこの夏行ってきた旅のスライドもお見せしましょう。かの地で私たちの訪れを待っている偉大な生物多様性を見ることができます。
これから私にわかることをお話しします。私自身、経験したことです。
私は子供時代の半分をブリティッシュ・コロンビア州で過ごしました。そこではキャンプしたり、ハイキングしたり、潮流の影響で干満のある池で泳いだり・・・。残りの半分はトロントで過ごしました。トロントは大都会でしたが、私たちの家族はそこでもフィールド・トリップをしようとしました。私たちは週末ごとにレスリー・ストリート岬や近郊の田舎に出かけたものです。
妹と私は色々なものを集めた博物館を作りました。すてきなものを集めて見せて説明するのです。それから果樹園とか、ぺトログリフのある公園とか。
ですから、ブリティッシュ・コロンビアでもトロントでも、戸外の生活はわたしにとっていつも面白い場所でした。そして私は、さらにその外にある世界について耳にしたのです。
私が8歳、そして妹のサリカが5歳だったとき、両親はアマゾンで計画されていた一連の水力発電ダム建設を阻止する南アメリカでの闘いに深く関わるようになりました。もしこれらのダムが造られたら、何百もの先住民の村が立ち退かされ、何千匹もの野性動物や鳥がすみかを失うのです。大規模な先住民の会議が開催され、電力会社と交渉しました。そして最後に、先住民の連合は勝利をおさめたのです。世界銀行は融資を見合わせました。今日に至るまでダムは造られていません。
私は、両親がブラジルに行っている間に耳にしたすべての事がらを覚えています。そしてそれらすべてが、どれほど胸躍る出来事だったろう、と想像しています。ダム反対闘争には勝利しましたが、その結果カヤポ族の一人のリーダーのところに「殺すぞ」という脅迫が来るようになりました。かれは私の両親の家がカナダにあることを知っていたので、事が収まるまで彼の妻と三人の子どもを連れて、カナダにある私たちの家で住もうと決めたのです!考えてみてください。低地アマゾンの熱帯雨林で、石器時代同様の生活をしていた家族が、ヴァンクーバーの町にやってきたのです。
かれらは私たちと一緒に6週間過ごしました。両親と妹と私は、彼らと一緒にブリティッシュ・コロンビア州を旅して回りました。そしてあちこちでミーティングを企画し、ブリティッシュ・コロンビアのロング・ハウスやスモークハウスの中で、カヤポのリーダーと現地の先住民が、これから自分たちが生きていく上で必要な戦略について意見交換し、文化交流をする機会を設けました。私たちはこのカヤポ族の家族ととても親しくなりました。私たちはかれらに雪や海を見せてあげました。そしてなんといっても彼らのお気に入りは・・水族館の鯨だったのです。
次の夏、そのカヤポ族の家族が低地アマゾンのシング渓谷奥深くにあるかれらの小さな村に私たちを招待してくれました。
それは強烈な旅でした!大変な奥地で、そこまでたどり着くのにほとんど4日かかりました。最後には小さな飛行機に乗り、一時間、延々と熱帯雨林の上を飛び続け、カヤポ村の小さな泥の滑走路に着陸しました。そのとき飛行機の窓から見た光景は生涯忘れられないでしょう。裸で、体を色とりどりに塗ったたくさんの人たちが私たちにあいさつしようとやってくるのです。まるで違う惑星に着陸したみたいでした。
妹と私は旧友に再会し、その他のカヤポ族の子どもたちともすぐ友達になりました(私たちがお互いの言葉をわからないことは、なんの障害にもなりませんでした)。カヤポ族の人たちは私たちに多くのものを見せてくれました。どうやって電気ウナギをつかまえるか、どうやってツクナレに矢をいかけるのか。どこに亀は卵を隠すのか。かれらは私たちを森に散歩に連れていき、新鮮なパパイヤを切って昼ご飯にしてくれました。私たちは川で泳ぎ、岸辺では人々が小さなピラニアを釣っていました。
私たちはカヤポ族と同じように、何千年も同じようにして生きてきた人々に習って暮らしました。
アウクレでのそのときの経験は、私の心に永久に刻み込まれました。私はアウクレで、ブラジルの森に恋に落ち、生物学を学ぼうと心に決めたのです。
しかし、所詮私たちはその世界の人間ではありません。やがて私たちがそこを去る日がやってきました。小さな飛行機が舗装されてない小さな滑走路に降り立ち、私たちを乗せて飛び立ちました。森林をはるか後に、レデンカオの都会にむかって。
しかし、森の端の方を見ると、なんと森が燃えているのです!夢中で森を見下ろすと、大きな火の手があちこちに上がっていて、そこから煙が渦巻いて上っているのが見えました。すぐに飛行機も厚い煙に巻き込まれました−太陽に向かってまっすぐ目を開けられるほどでした。煙は飛行機の中まで入り込んできました。
この飛行経験が私の人生を変えました。たったいま、信じられないような美しい世界が存在する事を知ったばかりなのに、その直後にそれが燃えているのを見ることになるなんて!その火事の背後には経済的な理由があったのか、それともほかの何があったのかは知りません−ただただ、私は納得できませんでした。
私はカナダに戻り、ヴァンクーバーで5年生になりました。私は自分が見てきた素晴らしい場所の事を友達に話しました。そしてさらに、この素晴らしい世界が燃えていた話もしました。彼らも自分たちの「環境」に問題が起こっているということは聞いて知っていました。私たちは、一体なにが起こっているのかもっと知らなくては、という結論に達しました。そして私たちは小さなクラブを結成し、それをECO(環境子ども組織)と名付けました。私たちはどんな事でも、私たちに教えてくれる人にはどんどん声をかけていきました。そして私たちはいろいろと小さなプロジェクトを始めました。
私たちは地元の海岸掃除をしました。サラワクのペナンの人たちのためのチャリティーイベントに出かけていって、かれらの村の水のために使うフィルターを買うお金を集めるお手伝いをしました。というのも森林伐採でかれらの小川が汚染されてしまったからです。地元の青年組織の助けで、私たちは定期的にニュースレターを発行しました。同世代の子どもたちと、私たちが学んだ情報を分かち合うためです。
ECOの活動は大変楽しいものでした。私たちはいつも積極的で、楽しみながら(母はいつも話合いの時にはクッキーをくれました)、絶えず新しいこと、とても興味深いことを学んでいました。
私たちはオゾン層に穴が開いていること、大気汚染が気候変動を引き起こしていることを学びました。多くの森林がアマゾンと同じように破壊されつつあることを学びました。それらは恐ろしい事実です。でも、小さなプロジェクトでも友達と一緒に取り組んでいるうちに、私たちは私たちがこれらの脅威に立ち向かっていこうとしていることを楽しめるようになってきました。
11歳のとき、私はどうやらトップの政治家や各国首脳が集まって世界最大規模の会合が開かれるらしいという噂を家で耳にしました。どうやら1992年にブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開かれるらしい。国連は、この会合で20世紀の残された期間の方針を決め、また21世紀に向けて、より持続可能な生き方につながるようなものにこの会合がなることを望んでいました。私は、この会議の結果によってもっとも利益をうける、または苦しむ結果になるのは私たち(子どもたち!)なのに、この会議には若者の代表がだれもいないことを知りました。友人と私はECOこそ子どもたちの代表としてブラジルに行くべきだ!という結論に達しました。
大人たちは私たちの決意を聞いて、おまえは頭がおかしい、会議には3万人もの人たちが参加するのだ、動物園みたいなもので、人の間でもみくちゃにされるのがオチだ、といいました。でも私はとても頑固だったので、友達と私は周りの人々にこの考えを訴え続けました。すると、突然みんなは私たちにカンパをしてくれだしたのです!母は、私が実はどうやってお金を工面したらいいのかわからないのを知って、また、案外これはいいアイディアかもしれないと思ったらしく、私たちを助けてくれるようになりました。
私たちはお菓子を焼いて売ったり、持っている本を売ったり、アクセサリーを作って売ったりしました。EYAの若い活動家がどうやって資金集めをするのかを教えてくれました−どうやってものを売る場所を借りるか(そのためのお金がないときに)、どうやってイベントをポスターで宣伝するか、等。両親たちは私たちに、どうやって私たちの主張に人々の耳を傾けさせるか、スピーチの方法をコーチしてくれました。地元の人たちの支援で、私たちは5人の代表をリオに送るのに十分なお金を集めることができたのです!ラッフィ(ヴァンクーバー在住の子どもの歌手)さえ私たちの強力な支援者になってくれて、私たちと一緒にリオに行きました。
両親の言ったとおり、リオは動物園みたいでした。町はきちがいじみていました−リオの中心街は軍隊が一杯、市内ではいろんなイベントが繰り広げられていました。私たちはNGOグローバルフォーラムのブースを一つ借り、興味を持ってくれる人になら誰にでも声をかけました。機会があればどこででもちょっとしたスピーチをしました。いつでもインタビューに応じ、質問に答えました。
そしてとうとう、リオ滞在の最後の日、最後の瞬間に私たちはあの最高のときを迎えたのです。ユニセフ議長だったグラント氏が、「子どもたちも全体会に参加させるべきだ」とサミット議長のモーリス・ストロング氏を説得してくれて、私たちはそこでスピーチをするよう言われました。地球サミットの政策会議の会場に向かって、がたがた揺れながら市内を走るタクシーの中で、半狂乱になって原稿をなぐり書きしたことをいまでも覚えています。私と他の4人のメンバーは、なんとか私たちが世界のリーダーたちに言いたいことすべてを一つのスピーチにまとめようとがんばりました。
私たちは警備の人たちの間をすり抜けてセッション会場に駆け込みました。大きい会場一杯の重々しい代表の人たちを前にしてあがってしまう時間さえありませんでした。私のスピーチは6分間でした・・。
私は自分が12歳であること、何が私にとって大事であるかを話しました。私は森や海が大好きだということ、そして、健康であるためにはきれいな空気や水が必要であることを話しました。私は自分の将来について恐怖を抱いていることを話しました。「あなた達は経済界の指導者としての義務や官僚的な政治家としての義務より、まず親として、祖父母としての義務を果たしてください」といいました。「あなた達の下す決定が誰に影響を及ぼすのか思い出してください」といいました。「一番影響を受けるのはあなた達の子どもたちなのです。」と。
スピーチが終わったとき、人々は立ち上がって歓声を上げました。驚くほどの反響がありました。政治家、各界の代表、ドアマンまでが目に涙をいっぱいためて、本当に大事な事を思い出させてくれてありがとう、と私たちにいいました。私のスピーチはサミット会場がある建物全体と国連で再放送されました。
私たちがやり遂げたいと言い続けていたことを本当に実現できるなんて、だれが想像したことでしょう。すべてはアマゾンの森の火事を見たときに始まったのです。そこで強く何かを感じたのです。その出来事は私に強さをくれました。私に、外に出て小さなグループを組織し、何かをやろうとするたくましさをくれたのです。そして、いろいろなことをやり続けるなかで、私の人生は大変豊かになったのです−たくさんの勇敢で刺激的な人たちに出会うことができました。
この経験は、「破壊が行われている」という知識が、その破壊に立ち向かう行動のエネルギーへと転化したよい例ではないでしょうか。悪いニュースのせいで私たちの善意がくじけてしまってはならないのです。悪いニュースを聞いて、自分たちの努力は役に立たないなどと思ってはいけません。「不正を許すことはできない」という自分の気持ちを生かすべきです。その気持ちを、自分たちの未来のために声を挙げようという勇気へと変えていくのです。
さて、その後の9年間に何があったでしょう?
私がリオからカナダに戻ったとき、すべては一変していました。私は世界中のありとあらゆるところから講演依頼を受けました。土台を作る時期には大変苦労したのに、いまや私や友人たちが若者代表として様々な会議に招待されるのですから、本当に信じられません。
それ以来、私はたくさんスピーチをしてきました。リオ・サミット以来、世界中を駆けめぐって、大人たちにはこれからの世代のために環境と世界の資源をまもってくれるよう、そして子どもたちには勇気を出して声を上げていくよう、一生懸命語りかけてきました。1997年には国連のリオ+5に参加するよう招待されて、再びリオに戻りました。これは92年のリオ会議の成果を振り返るための会議ですが、今回は私は自分の主張に耳を傾けてもらうのに苦労しなくてすみました。私はモーリス・ストロング、ゴルバチョフ大統領、ルバース(オランダ)、トーレ(マリ)その他大勢の人々と共に、地球憲章委員会のメンバーとなったのです。
最近はカナダで環境保護の側面を強く打ち出した、「ネイチャー・クエスト」というテレビの子ども向け科学/自然番組シリーズのホストも務めました。
私がこの話をしたのは、ECOが繰り返し言い続けてきたことが正しかったことを示していると思うからです。あなたは役に立てるのです。あなたの主張を人々に聞いてもらうことは本当に可能なのです。私だって、私の自然への愛情が結局どのような出来事を起こしていくかなんて、なにもわかってはいませんでした。
これらの経験の結果、私は今は大学で生物学を学んでいます。化学や生物学的システムや進化や生態系について学ぶうち、科学が自然に関する私の知識を補ってくれることに気づきました。光合成についてもしくは水の循環の基本など、科学的に探求すればするほど、私の自然に対する畏敬の念は高まるのです。
そして、科学的に探求すればするほど、自分たちがひっくり返しつつあるこの驚くべき自然界のバランスを回復するために努力しなくてはならないという私の信念は強くなるのです。
気候変動は、おそらく大規模なバランス破壊のもっともよい例でしょう。動植物の絶滅の割合も非常に高くなっています。
もしかしたらあなた達は、人類は美しい未来のためにベストをつくしてなんかいない、と思いながらここに座っているかもしれませんね。あなた達がとりわけ心配している、環境に関する特別な課題があるのかもしれません。また、あなた達はトロントの大気汚染に憤慨しているかもしれません。喘息を持っている人もいるかも。そしてあなた達はアマゾンのジャングルに行ってみたいな、と思っているかもしれませんね。
私はしょっちゅう、アウクレに戻りたい、と思っていました。でも、最初の訪問から12年が過ぎ、私は経済学やら資本主義やらグローバリゼーションやらの存在を学び、また先住民の文化が消滅していっていることを知りました。そのような事は考えるだけでも恐ろしいことでした。私は、熱帯雨林でくらす人々に対する圧力があまりに大きく、彼らの生活が変わってしまったのではないかと心配していました。ですから、私は9才の時に愛した小さな村に戻ることが恐ろしくもありました。
今年の夏、アウクレを訪れるチャンスが訪れました。学校で、4年生の研究プロジェクトに対する奨学金があることを知り、アマゾンの研究ステーションのインターンに申し込んだのです。私はすでに9年前から、T大学のある教授によって設立されたその研究ステーションのことを知っていました。それは私が12年前に訪れた村、アウクレの村の川の上流にありました。私は奨学金を得て、この夏カヤポ族の村に戻りました。私は心配でどきどきしていました。
しかし、飛行機が赤土の小さな滑走路に舞い降りて、たくさんのボディ・ペインティングをした人々が私に会おうと駆け寄ってきたとき、私はこの人たちが今でも熱帯雨林で堂々と生き続けていることがわかりました。
スライドを見ていただければ、みなさんにも雰囲気を感じ取っていただけると思います。
翻訳:株式会社ウインドファーム