変革を起こす技術
THE ART OF MAKING THINGS HAPPEN

2001年3月5日、ブラジル、サン・パウロ市「国際APG:アマナ・キー ビジネス会議」にて、セヴァンからビジネスマンたちへのメッセージです。

 こんにちは。ゼヴァン・カリス・スズキです。92年のリオ会議でスピーチをした、あの12歳の子どもです。リオでの私の活動がきっかけで、こういうタイトルの話をみなさんにする事になった訳ですから、どうして私が12歳の時に地球サミットでスピーチをすることになったのか、ということをお話したいと思います。この話を聞けば、あなた達の国がどれほど私の人生に大きな影響を与えてきたかがおわかりになるでしょう。
 私は、変革を起こしていくような家庭に生まれました。私の父もそのような環境に生まれました。なぜなら父は日系カナダ人だったので、第二次世界大戦中、まだ子どもだったころ、カナダで収容所に入れられていたからです。
 私の母は私が物心ついたときから活動家でした。母はよりよい学校システムや自分がよいと信じたもののために闘ってきました。女性ですから、平等を勝ち取ることがいかに重要であるか、母はよく知っていますし、また、子をもつ母として、よりよい未来のために闘うことの重要さもよくわかっています。
 1988年、私が8歳、そして妹のサリカが5歳だったとき、両親はブラジルの環境保護活動家や先住民の人たちからの依頼で、アマゾンで計画されていた一連の水力発電ダム建設を阻止する闘いに深く関わるようになりました。
  もしこれらのダムが造られたら、何百もの先住民の村が立ち退かされ、何千匹もの野性動物や鳥がすみかを失うのです。あなたがたはアルタミラでの先住民の会議を覚えているかもしれませんね。先住民の連合は勝利をおさめ、世界銀行は融資を見合わせました。そして今日に至るまでダムは造られていません。私はまだほんの子どもで、両親はブラジルに行っている間もカナダの家にいましたが、その頃耳にしたすべての事がらを覚えています。そしてそれらすべてが、どれほど胸躍る出来事だったろう、と想像していました。
 ダム反対闘争には勝利しましたが、その結果カヤポ族のリーダーのところに「殺すぞ」という脅迫が来るようになりました。かれは私の両親の家がカナダにあることを知って、事が収まるまで彼の家族全員でカナダに移住して私たちと一緒に住もうと決めたのです!
 考えてみてください。低地アマゾンの熱帯雨林で、石器時代同様の生活をしていた家族が、ヴァンクーバーの町にやってきたのです。 かれらは私たちと一緒に6週間過ごしました。両親と妹と私は、彼らと一緒にブリティッシュ・コロンビア州を旅して回りました。そしてあちこちでミーティングを企画し、ブリティッシュ・コロンビアのロング・ハウスやスモークハウスの中で、カヤポのリーダーと現地の先住民が、これから自分たちが生きていく上で必要な戦略について意見交換し、文化交流をする機会を設けました。私たちはこのカヤポ族の家族ととても親しくなりました。私たちはかれらに雪や海を見せてあげました。そしてなんといっても彼らのお気に入りは・・水族館の鯨だったのです。
 次の夏、そのカヤポ族の家族が低地アマゾンのシングー渓谷にあるかれらの小さな村に私たちを招待してくれました。
 その旅は、一生消えないほどの影響を私に与えました。妹と私は旧友に再会し、その他のカヤポ族の子どもたちともすぐ友達になりました(私たちがお互いの言葉をわからないことは、なんの障害にもなりませんでした)。カヤポ族の人たちは私たちに多くのものを見せてくれました。どうやって電気ウナギをつかまえるか、どうやってツクナレに矢をいかけるのか。どこに亀は卵を隠すのか。かれらは私たちを森に散歩に連れていき、新鮮なパパイヤを切って昼ご飯にしてくれました。私たちは川で泳ぎ、岸辺では人々が小さなピラニアを釣っていました。
 私たちはカヤポ族と同じように、何千年も同じようにして生きてきた人々に習って暮らしました。
 アウクレでのそのときの経験は、私の心に永久に刻み込まれました。私がそこで経験した熱帯雨林の多様性と美しさが、もっともっと自然について学びたいという私の気持ちに火をつけたのです。そしてそのおかげで、その後、何年間も生物学教室で研究することになったのです。私はアウクレで、ブラジルの森に恋に落ちました。
 しかし、所詮私たちはその世界の人間ではありません。やがて私たちがそこを去る日がやってきました。小さな飛行機が舗装されてない小さな滑走路に降り立ち、私たちを乗せて飛び立ちました。森林をはるか後に、レデンカオの都会にむかって。
 しかし、森の端の方を見ると、なんと森が燃えているのです!夢中で森を見下ろすと、大きな火の手があちこちに上がっていて、そこから煙が渦巻いて上っているのが見えました。すぐに飛行機も厚い煙に巻き込まれました−太陽に向かってまっすぐ目を開けられるほどでした。煙は飛行機の中まで入り込んできました。
 この飛行経験が私の人生を変えました。たったいま、信じられないような美しい世界が存在する事を知ったばかりなのに、その直後にそれが燃えているのを見ることになるなんて信じられませんでした。その火事の背後には経済的な理由があったのか、それともほかの何があったのかは知りません−私の幼い心はただこう叫んでいたのです。「こんなのいやだ!こんなの違う!」
 私はカナダに戻り、ヴァンクーバーで5年生になりました。私は自分が見てきた素晴らしい場所の事を友達に話しました。そしてさらに、この素晴らしい世界は消滅しつつあるのだともいいました。彼らも自分たちの「環境」に問題が起こっているということは聞いて知っていました。私たちは、一体なにが起こっているのかもっと知らなくては、という結論に達しました。そして私たちは小さなクラブを結成し、それをECO(環境子ども組織)と名付けました。
 私たちはどんな事でも、私たちに教えてくれる人にはどんどん声をかけていきました。そして私たちはいろいろと小さなプロジェクトを始めました。私たちは地元の海岸掃除をしました。サラワクのペナンの人たちのためのチャリティーイベントに出かけていって、かれらの村の水に使うフィルターを買うお金を集めるお手伝いをしました。というのも森林伐採でかれらの小川が汚染されてしまったからです。
 地元の青年組織の助けで、私たちは定期的にニュースレターを発行しました。若い世代の人たちと、私たちが学んだ情報を分かち合うためです。実際私たちは多くの事を学びました。ECOの活動は大変楽しいものでした。私たちはいつも積極的で、楽しみながら(母はいつも話合いの時にはクッキーをくれました)、絶えず新しいこと、とても興味深いことを学んでいました。
 11歳のとき、私はどうやらトップの政治家や各国首脳が集まって世界最大規模の会合が開かれるらしいという噂を家で耳にしました。どうやらブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開かれるらしい。国連は、この会合で20世紀の残された期間の方針を決め、また21世紀に向けて、より持続可能な生き方につながるようなものにこの会合がなることを望んでいました。私は、この会議の結果によってもっとも利益をうける、または苦しむ結果になるのは私たち(子どもたち!)なのに、この会議には若者の代表がだれもいないことを知りました。
 私は両親に「ECOこそ子どもたちの代表としてブラジルに行くべきだ!」といいました−そして両親は「おまえは頭がおかしい。会議には3万人もの人たちが参加するのだ。動物園みたいなもので、人の間でもみくちゃにされるのが落ちだ。」といいました。でも私はとても頑固だったので、友達と私は周りの人々にこの考えを訴え続けました。すると、突然みんなは私たちにカンパをしてくれだしたのです!母は、私が実はどうやってお金を工面したらいいのかわからないのを知って、また、案外これはいいアイディアかもしれないと思ったらしく、私たちを助けてくれるようになりました。
 私たちはお菓子を焼いて売ったり、持っている本を売ったり、アクセサリーを作って売ったりしました。母はどうやって資金集めをするのかを教えてくれました−どうやってものを売る場所を借りるか(そのためのお金がないときに)、どうやってイベントをビラやポスターで宣伝するか、等。両親たちは私たちに、どうやって私たちの主張に人々の耳を傾けさせるか、スピーチの方法をコーチしてくれました。資金集めのイベントや、地元の人たちの支援もあり、私たちは5人の代表をリオに送るのに十分なお金を集めることができたのです!ラッフィ(ヴァンクーバー在住の子どもの歌手)さえ私たちの強力な支援者になってくれて、私たちと一緒にリオに行きました。
 両親の言ったとおり、リオは動物園みたいでした。覚えている方もおられるでしょう。町はきちがいじみていました−リオの中心街は軍隊が一杯、市内ではいろんなイベントが繰り広げられていました。私たちはNGOグローバルフォーラムのブースを一つ借り、興味を持ってくれる人になら誰にでも声をかけました。機会があればどこででもちょっとしたスピーチをしました。いつでもインタビューに応じ、質問に答えました。
 そしてとうとう、リオ滞在の最後の日、最後の瞬間に私たちはあの最高のときを迎えたのです。ユニセフ議長だったグラント氏が、「あの子たちも全体会に参加させるべきだ」とサミット議長のモーリス・ストロングを説得してくれて、私たちはそこでスピーチをするよう言われました。地球サミットの会場に向かうがたがた揺れるタクシーの中で、半狂乱になって原稿をなぐり書きしたことをいまでも覚えています。
 私と他の4人のメンバーは、なんとか私たちが世界のリーダーたちに言いたいことすべてを一つのスピーチにまとめようとがんばりました。私たちは警備の人たちの間をすり抜けてセッション会場に駆け込みました。大きい会場一杯の重々しい代表の人たちを前にしてあがってしまう時間さえありませんでした。私は自分のスピーチを始めました・・・。
 私のスピーチは聞かれましたよね。私は自分が12歳であること、何が私にとって大事であるかを話しました。私は自分の将来について恐怖を抱いていることを話しました。「あなた達は経済界の指導者としての義務や官僚的な政治家としての義務より、まず親として、祖父母としての義務を果たしてください」といいました。「あなた達の下す決定が誰に影響を及ぼすのか思い出してください」といいました。かれらに、わたしにとって本当に価値があるものはなになのか、という話をしました。
 スピーチが終わり、人々は立ち上がって歓声を上げました。驚くほどの反響がありました。政治家、各界の代表、ドアマンまでが目に涙をいっぱいためて、本当に大事な事を思い出させてくれてありがとう、と私たちにいいました。私のスピーチはサミット会場がある建物全体に再放送されました。
 私たちがやり遂げたいと言い続けていたことを本当に実現できるなんて、だれも思ってもみませんでした。
 すべてはアマゾンの森の火事を見たときに始まったのです。そこで強く何かを感じたのです。その出来事は私に強さをくれました。私に、外に出て小さなグループを組織し、何かをやろうとするたくましさをくれたのです。そして、いろいろなことをやり続けるなかで、私の人生は大変豊かになったのです−たくさんの勇敢で刺激的な人たちに出会うことができました。
 さて、その後の9年間に何があったでしょう?
 私がカナダに戻ったとき、すべては一変していました。私は世界中のありとあらゆるところから講演依頼を受けました。前は人に話すチャンスを得るためにあれだけ苦労したのに、いまや私や友人たちが若者代表として様々な会議に招待されるのですから、本当に信じられません。
 それ以来、私はたくさんスピーチをしてきました。リオ・サミット以来、世界中を駆けめぐって、大人たちにはこれからの世代のために環境と世界の資源をまもってくれるよう、そして子どもたちには勇気を出して声を上げていくよう、一生懸命語りかけてきました。その仕事が評価され、私は環境保護運動の分野で国連環境プログラムのグローバル500賞を頂きました。
 1997年には国連のリオ+5に参加するよう招待されて、再びリオに戻りました。これは92年のリオ会議の成果を振り返るための会議ですが、今回は私は自分の主張に耳を傾けてもらうのに苦労しなくてすみました。私はモーリス・ストロング、ゴルバチョフ大統領、ルバース(オランダ)、トーレ(マリ)そしてヨルダンのバスマ王女その他大勢の人々と共に、地球憲章委員会のメンバーとなったのです。今でも私は委員会のメンバーとして活動しています。この地球憲章の目的については後で説明します。
 私はカナダで環境保護の側面を強く打ち出した、テレビの子ども向け科学番組シリーズや自然紹介のシリーズのホストも務めました。この話は、ECOが繰り返し主張してきたことの正しさを証明してくれるように思います。あなたは効果を上げることができるのです。人々にあなたの主張を聞いてもらうことは可能なのです。
 今、私はイェール大学で生物学を学んでいます。活動よりむしろ本に埋もれる毎日です。でも、私が今、文献を研究しているのは、自然の中に研究に出かけていくためなのです。私は今のこの努力を、生物多様性の保護のために生かしたいのです。科学的専門知識をもって、より持続可能な生活を提言していきたいのです。
 この夏とうとう、かつて訪れたアマゾンの美しいシングー渓谷の支流にある研究所でフィールドワークができることになりました。9歳の時に、私に大いなるインスピレーションを与えてくれたあなた方の熱帯雨林に戻れるのです。私の人生はいつでも何かしら素晴らしいブラジルの熱帯雨林とつながっているように思います。
 今では私は、アマゾンが抱える難問が地球サミットでスピーチをすれば解決するような簡単なものではない、ということがわかっています。私は21歳になり、私たちが取り組まなくてはならない問題の複雑さを理解し始めています。私はアマゾンが破壊され続けることに怒りを覚えていました。でも、そのころは、そのような火事を引き起こす原因となる、広範な貧困の存在や経済的な現実を知りませんでした。
 今年は2001年、そして私は昨年21歳になりました。私は大学生で、私のプロとしてのキャリアや、それがどういう意味をもつかについて考え始めています。私がどのように生きていきたいのかについて。私は自分の目標というものを定めようと努力していますが、その過程で、私は、21歳の人間にとってこの世界は12歳の頃と同じように単純ではないのだ、ということに気づかされました。
 オスカーは私に「変革を起こす技術」について話して欲しいと頼みました。
 「変革を起こす技術」とは何でしょう?どうすれば、物事を可能にしていけるのでしょう?

まず、すること:価値の基準を設定する

 今日、あなた達はあなた達の組織の目的について議論してきました。ちょっとわたしたち一人一人の目的についてみてみましょう。
 私たちは複雑な存在です。いろんなレベルのアイデンティティを持っています。

  1. 人類です。私たちは生物的被造物です。動物です。
  2. 親であり、子です。関係の中で生きている人間であり、コミュニティのメンバーです。
  3. 職業人として、資本主義経済のなかで事業をしている人です。

 まず、最初のレベルから始めましょう。私たちは人間という動物です。

 生物多様性:12歳の頃、私は人間は生きていくために他の動物を必要としているのだと思っていました。でも、いまは動物たちは生物の多様性のために必要なのだと思っています。これはどういうことだと思いますか?
 まず、私は大学で、この世界は大変複雑な場所であると学んできました。世界は複合的に入り組んでいて、学ぶべきものが本当にたくさんあります。それぞれの問題にはたくさんの側面があります。私は生態学と進化論的生物学の分野を研究しています。それは私に、自然が完全に把握するのは決して不可能なくらい複雑であることを教えてくれますが、一方で、そこにはなんらかの基本となるものがあることも否定できない、ということを私は学んでいます。
 私が学んでいることについて少しお話ししたいと思っています。というのはこれらのおかげで私は自分の価値基準というものをみいだし、そのおかげでわたしはいろいろな物事をやり遂げてこれたからです。
 私たちの第一のアイデンティティ、私たちが人類であるということですが、もっとも驚くべき事は、相変わらず私たちは動物だということです!私たちの社会は「人」としての側面にばかり光をあててきました。私たちは「人間を動物として考える」という場合に、ある特殊な意味がこめられることに気づいています。誰かを動物(豚、鶏、蛇)と呼ぶことは侮辱になるのです。
 大変幼いときから、私たちは他の生き物とは違う、私たちはよりすぐれているのだ、と教えられます。これは大変危険な事です。なぜなら、このような教えは、私たちだって他のすべての動物同様自然界に依存して生きているのだという現実を、私たちの目から覆い隠してしまうからです。
 人間はその生物学的なアイデンティティから引き離され、その優越思想のせいで、生物としての危機に直面しても、「何もできない」という誤った感覚を抱いてしまうのです。
 私は研究を通して、私たちが一体どこからきたのか少しずつと学んでいます。何かをきっかけにして、私たちは他の動物と決定的に「違う」存在になったのです。
 私の父がよくするお話をさせてください。科学の力でタイムマシンが作られたと思ってください。
 地球は46億年前にできました。40億年前に行ってみましょう。生命が誕生する前です。もし、タイムマシンから出て地上に降り立ったら、私たちは2分と生きていられないでしょう。息ができないからです。地球ができて最初の数十億年の間、大気は私たちにとっては有毒なガスでできていました。
 しかし、38億年前、この空気のない、水もない環境の中で、生命は誕生したのです。最初の生命は顕微鏡でないと見えないようなバクテリアでした。そしてやがて、十億年かそこらののち、驚くべき能力をもった生物が現れました−かれらは酸素を作り出せたのです。
 この生物、シアノバクテリアは世界の大気を変えました! このバクテリアが酸素で世界の大気を「汚染」したので、やがて二酸化炭素しか呼吸できない生物は絶滅しました。彼らのおかげで私たちになくてはならない、この大気ができたのです。他の生物が、私たちの呼吸するこの大気を作り出したのです。
 さて、私たちが酸素ボンベを持っているとしましょう。私たちはノドが乾くまでは大丈夫なはずです。でも40億年前には私たちが飲める水はありませんでした。水があったとしても、私たちが飲むのには適していませんでした。生物がこの水を飲めるようにするフィルターの役目をしてくれたのです。他の生命がなければ私たちは水を飲むことさえできなかったのです。
 では、私たちがタイムマシンに水を持ち込んでいたとしましょう。やがておなかがすくでしょう。でも食べ物はないのです。生物が存在する前には食べ物はなかったのです。私たちが食べているものはすべて、かつては生きていたものです。私の父は、私たちは歩くコンポストだとよく言っています!
 なら、食べ物を得るために野菜の種を植えてはどうでしょうか?種を植えることはできません。なぜなら地球上には土がなかったからです。土は生物によって作り出されました。他の生命が、私たちが食べ物を育てるのに必要な土壌を作り出してくれたのです。
 私たちが小さなタイムマシンの外にいるとき、寒くなったらどうしますか?火をおこしたくてもできません。生命誕生の前には、燃えるものがなにもないのです。私たちがエネルギーとして使っているすべてのもの、木材、ガス、化石燃料、空気、これらはすべて生物から、何億年もの時間をかけてできたものです。
 つまり、重要なことは、私たちが生きていくのに必要なもの、空気、水、土、エネルギー、これらは地球の生命の多様性が作り出した、ということなのです。私たちに必要な資源を補充してくれる他の生き物がいなくなれば、私たちは生きていくことはできません。私たちが持っているすべての発展した技術をもってしても、自然界の多様性がなくなれば私たちは生きていけなくなるのです。
 私たちは私たちが自然界に依存していることを認識しなくてはなりません。そして、それを認識できれば、私たちはいくつかの根本的な価値、大事なことに気づくでしょう。決して否定することができない真実があるのです。私たちは惑星地球の上で生きている生き物です。私たちが生きていくためには地球が必要なのです。

見いだすこと

 私たちにとって根本的に大事なものが何であるかはっきりしました。では、変革を可能にするための第二段階は・・・見いだすことです:私たちの生活の中で、私たちにとって本当に大事なものについて矛盾が生じてしまうのはどんな場面でしょう?また、どのような矛盾でしょうか? これは難しい問題です。
 私は92年のリオ会議で、大人たちにその問題に取り組むよう求めました。
 今私は大学生です。そして、世界中のだれもが、生育環境によって植え付けられた先入観をもっていること、時には学んだことからも先入観を植え付けられることを理解しています。私たちはそれぞれ、違う視点で世界を見るように訓練されるのです。これはどうしようもありません。私自身の人格も生物学科で学ぶことを通して、今、形成されている途中なのです。
 でも私はまだ職業に就いていない分、未形成といえます。また自分で生計を立てる心配もいりません。それこそが92年のリオで私が享受していた自由です。私は暮らしの心配をしなくてよかった、どうやって食べていこうという心配で世界が暗く見えるなんてことはなかったんです。私は世界に対して、妥協する必要はありませんでした。私の世界観は、まったく思った通りのストレートなものだったのです。
 いまは学んだことや経験してきたことから切り離して物事を見るのは簡単ではありません。ものごとを客観的にみることはなかなか難しいのです。私たちは世界を汚れたレンズを通して見ています。
 私たちの生活と私たちの価値観との間に軋轢が生じするのはどんな場面でしょうか。どうすればそれに気づくでしょう。
 私たちが学生、大人、科学者、ビジネスマンとして形作ってきたものの見方を問い直すためには、私たちはシンプルであるということはどのような状態なのか、思い出さなくてはなりません。子どものようになるにはどうしたらよいかを。
 私たちは立ち止まり、私たちにとって本当に大事なものはなにか、思いめぐらしてみなければなりません。私の母はかつて私に、子どもは天地万物により近い、と言ったことがあります。
 子どもたちはどろんこ水たまりやおたまじゃくしや花や毛虫なんかを見ると手をのばさずにはいられません。自然が大好きです。大人が「虫や 花は君たちの兄弟姉妹なんだよ」というのを一番よく理解するのは子どもたちでしょう。子どもたちはまだ自然の一部なのです。
 私は時々、人は複雑な仕事や生活において決定を下す立場になると、本当に大事な事を忘れてしまう、と思うことがあります。私たちにとって本当に大事な価値観を再度見いだす秘訣は、自分たちが子どもだった頃、どんなだったかを思い出すことです。
 すべての虫や鳥、チョウチョを捕まえたことや池で蛙を探したことを思い出してください。
 草の中で遊んだことや木登りしたことを。それらがあなたにとってどんなに大事だったか、それらがない世界なんて、子どものあなたには想像もつかなかったということを。
 私は、心の底では私たちは何が大事か、どんな原則に従って生きるのが正しいのかわかっていると思います。でもこれは簡単に忘れられてしまうのです。
 あなたがもし、自分が子どもの時一体なにが一番大事だったか思い出せないなら、あなた自身の子どもたちにとって何が大事か、考えてみてください。あなたは自分の子どもたちのために何を残してあげたいですか?彼らの未来のために?
 そのように考えてみれば、私たちは私たちの生活の中のどんな行為が私たち自身の価値観との間に軋轢を生じているのか、見いだすことが出来るかもしれません。親として、あなた達は未来に目を向けないといけないのです。自分たちの行為がどのような結果をもたらすのかに対して。

アイデンティティ、そして信じる力

 このような見直しを通して、わたしはコミュニティの一員としての私たちの役割というものを考えるようになりました。ここブラジルは、ほとんどの国と同様、コミュニティの中に多くの問題があります。貧困と失業という問題です。
 私たちは自然に依存する動物であるという事をお話ししました。では次のレベル、人間としてのアイディティの問題です。これは私たちが共同体の一員であるという事です。私たちは私たちの文化を擁護し、子どもたちをはぐくんでいかなくてはいけません。私たちは単に生物学的存在であるだけではなく、社会的存在です。私たちは自分たちの共同体、社会、そして文化を必要としているのです。そして私たちは自分たちの共同体に貢献しなければなりません。私たちは有用な存在でなければならない、「必要とされる」必要があるのです。
 今日、あなた方は組織の目的について話し合って来ました。つまり、あなた達のビジョンについてです。アマナ・キーグループの精神から言って、いわゆる経済的成功よりも高いレベルの目標を掲げることが必要とされています。私たちは他の人々、私たちのコミュニティ、未来の世代、そして世界に貢献しなければなりません。
 私はここ数年間、他の素晴らしい人々とチームを組んで取り組んできた国連の「地球憲章」についてふれました。地球憲章は92年のリオ会議から生まれたものです。私がこの憲章についてふれたのは、その話をすることで論点が明確になるからです。この憲章についてお話しすることによって、私たちの国際的な目的がはっきりしてくるでしょう。
 このプロジェクトに携わる30人あまりの委員には、地域のリーダーから先住民、先の大統領まで、世界の各層の人々が集まっています。草案作成のために委員会が招集されました。地球や他の人々に影響を及ぼすような行為に対して、私たちの倫理、価値観に従った形で行動するよう規範を示すガイドラインとなることを目指しています。来年、国連で採択のための投票が行われます。
 この憲章が、私たちの生活において、私たちの一番守るべき大事なものと矛盾しているものはなんなのか、私たちが今していることで、私たちの未来をダメにするようなものはなんなのか、はっきりと見定める助けとなるガイドラインになればいいと思っています。
 そして最後に私たちは行動しなければなりません。一旦、私たちが、何を一番大事にすべきなのかを見定め、また私たちの生活とその大事にすべきものとの間に生じている矛盾に気づいたなら、行動すべきです。父は今でも言います「君の言葉によってではなく、君の行為によって君がどんな人間かわかる。さあ、いまや事を起こす時です」。
 アクションのいい例がエコ・プレッジ(環境誓約)です。合衆国の何人かの大学生がこれを始めました。学生たちは生態系に対して特に悪いことをし続けていたり、環境に悪い方針をとっている会社のリストを作り、「これらの会社では働きません。」という誓約書に対する署名を集め始めました。今日、16万人を越える学生がエコ・プレッジに署名しました。私はイェール大学でこの活動を知りました。私のルームメイトのマーギーが他の学生たちと一緒にこのキャンペーンに一生懸命取り組んでいたからです。
 これは力強いメッセージです。企業とその企業の労働者に対して、自分たち―彼らの多くは企業として是非雇いたいような人材です―はその企業の道徳規準を受け入れられないと言っているのです。彼らはより高い価値観をもった、持続可能な活動をしている会社で働く、と宣言することによって、学生たちは企業にその価値基準を見直し、変革するよう迫っているのです。
 今日の午前中のセッションで、私たちは明確な目的意識を持った才能ある人々を引きつけるような高い目標を掲げるにはどうしたらいいのかを議論しました。これらの学生たちは自分たちの選択、自分たちの価値について宣言したのです。
 多くの企業では、内部から変わっていこうとする努力もなされています。フォードの新しい会長は、持続可能な活動のリーダーたるべく、会社の内部で起こしている変革について話しています!かれは、自分の環境保護活動家としての価値観が、フォードの自動車会社としての伝統的な企業活動とぶつかることが多かったので、企業慣行の方を変える努力をしようと決意したとのべています。
 彼の姿勢は前向きで素晴らしいものです。昨年のセレスの総会において、かれは「私たちは社会に対して積極的、かつ大きな影響を与えるチャンスを持っている。この機会を逃すことは出来ない」とスピーチしました。ガス−電気ハイブリッド乗用車の開発や環境保護活動への支援を、自ら音頭をとって行ってきたトヨタの会長の例を見習うなら、フォードの会長も、上手くやっていってくれるでしょう(トヨタは私たちにも助成金をくれています・・)。
 フォード同様、BP(British Petroleumブリティッシュ石油)も今日あなた達がここでしてきたことに取り組んでいます。BPは自分たちの価値観の見直しをおこない、いまやそのスローガンは「BP−石油を越えて(Beyond Petroleum)」です。化石燃料から再生可能エネルギーへの転換を表明しているのです。
 企業が、世界をよい方向へと変えていけるようなより高い目標を設定し、それにそって自分たちの方針を立て直そうとしている例はたくさんあります。これは正しい方向への大きな一歩です。これらの企業が、そのような目標に忠実であり続けるよう願っています。
 私は今日なぜここへ来たのでしょう。
 私は大昔のスピーチのおかげでここへ招かれたのです!私自身は、私がここに立っていること、9年前に私がしたことをお話しできるのは素晴らしい事だと思っています。
 昨晩、Fritjof Capra氏に会いました。Capra氏はこのビデオをセミナーで全部見せたと言いました。また、私はモトヤマ氏がアマナ・キーグループでもこのビデオを見せたことを知っています。なぜこのビデオはそんなに力があるのでしょうか?
 このビデオの内容はシンプルなものですが、そこになにか共鳴するものがあるのです。今日、ここでお話しするために乗ったサン・パウロ行き飛行機の中でそれがなにか考えていたのですが、私は、ある人がその人の中にあるもっとも根本的な原則に従って行動するとき、その人はとても強くなる、そこにあるのではないかと思います。ほとんど無敵の強さです。
 あなたが信じることを行うとき、そこに何の疑いも持たず、またあなたが信じることと行っていることとの間に矛盾がないなら、そこに力が生じます。私たちは自分の本当の根本的な価値観を見いださなくてはなりません。なぜなら一旦、私たちがそのような価値観にもとづいて活動を始めたなら、私たちを止められるものは何もないのです。今日、あなた達がここでしていることは、きっと世界をよりよいものとするのに役立つことでしょう。

新しいリーダーたちへの宿題

 この会議は新しい始まりについてです。2001年という年、いまや新しいリーダーたちが現れる時です。私たちは、私たちが暮らしてきたやり方は何か間違っていたということに気づいています。
 私が生まれたカナダは、ブラジルと多くの点で似ています。大きな国ですが、人口は都市に集中しています。広大な森林を保有していますが、急激に破壊されています。そしてほとんどの人々にとって、健康問題と環境保護が切実な問題になってきています。
 私たちがいつも新鮮で美しい空気を自慢にしてきた広大な北カナダで、大気汚染問題が発覚しつつあります。大気汚染を原因とする病気の死者が増加しつつあるのです。サン・パウロにも同様の問題―大気汚染と水の汚染問題があることを私は知っています。そしてこれが都市というものの健康状態をよく表しています。
 私たちは目の前に横たわる問題と目の前にあるチャンスの両方を見なければなりません。
 私たちは、私たちにとって一番大事なものは何なのかを覚えておき、そして何度も確認しなければなりません。私たちの生活の中で、どこでその価値観と現実の生活がぶつかるのかを認識し、態度を決めなければいけません。
 これは面白いチャンスです。あなた達には世界の新しい基準を決める機会があたえられているのです。先例を作るのです。世界をリードしていく可能性に気づいてください。
 あなた達にふたつ、宿題を出したいと思います。今週一杯考えて、あなた達がここを去るときには一緒に持ってかえって下さい。
 まず一番目に、あなたが社会から与えられている価値観を転換すること。あなたが人生の中で培ってきた専門知識と力を持ってではなく、澄んだ子どもの目で世界を見るよう努力してください。
 二番目に、この新しいミレニアムのリーダーを求める声に応えて立ち上がって欲しいということ。もしこの部屋にいる全員が家に帰って、あなた達の最高の信念を実行に移し始めたなら、ブラジルと世界は全く違った、よりよい場所になるでしょう。
 多くの人々はブラジルや世界を救いようがないと思っています。あなたたちなら出来ます。あなた達には世界の資源と、最高の人々が手に届くところにあるのです。
 私たちの組織には目的が必要です。しかし、最も大事なことは、私たち一人一人の人生にも目的が必要だということです。私は変革を起こすために努力する以上に貴重な目的はないと思います。あなた達と、今日、ここでそれを始められることを光栄に思います。

翻訳:ウインドファーム