セヴァンの1日

"Continua" という本に掲載された記事を転載します。

2月5日、火曜日

午前6時45分

 目覚ましが鳴り、半分眠った状態の自分をひきずるようにしてシャワーを浴びる。なんとか、7時15分までに駅に行き、ニューヨーク・グランドセントラル駅行きの電車に乗る。電車が動き始めるとともに、半睡眠状態から自分を奮い起こして、頭を切り替えていく。「ニュー・へイヴン市にあるイェール大学に通う大学生の私」という日常から、9時半から始まろうとしている国連での会議へ、と。その会議とは、8月から9月にかけて南アフリカのヨハネスブルグで行われる「持続可能な発展のための世界サミット」へ向けた国連事務総長の諮問委員会の会合のこと。でも、睡眠不足のせいかしら、この重要な会議に出るにはまだまだ準備不足だと感じてしまう。それに、こういったことの前はいつもそうなんだけど少し怖じけづいてもいる。

午前7時30分

 電車の中の私。10月の最初の諮問委員会のミーティングを思い起こす。9・11事件の直後で、ニューヨーク市は街中がテロに対する団結や反撃のスローガンや、アメリカ国民の感情を煽る星条旗でいっぱいだった。当時ニューヨークには誰一人、環境や持続可能な発展のことを考えている人はいないように見えた。そんな中で行われたミーティングで私が一番言いたかったのは、テロや暴力を、持続不可能な乱開発ということと切り離して考えることはできないということだった。「持続可能性サミット」に関わろうとする人がまず理解しなければならないのは、テロに対して戦うことが同時に持続可能性のために戦うことをも意味している、ということだ。
 だって自然環境の劣悪化が人々を貧困へと追いやり、そしてそれが人々を暴力へと追い詰めていくのだから。環境危機とテロは、つまり1枚のコインの裏表。あの10月の会議で私が言いたかったのはそれ。でも、国連の会議というものがいかにその民主主義的手続きの煩雑さと官僚主義のために行き詰まるものかを、身をもって体験した一日の後、私は不満と戸惑いの中に取り残されたものだ。

午前7時42分

 電車は通勤の会社員でいっぱいだ。国連事務総長の「ヨハネスブルグ・サミット諮問委員会」は私を含む13人のメンバーで構成されている。パキスタン元総理大臣のモーエン・クレシ、タンザニア元総理大臣のジョセフ・ワリオバから、チンパンジー研究で有名な科学者のジェーン・グドール、世界の水資源問題に深い関心を持つオランダのウィレム・アレキサンダー皇太子殿下まで、そうそうたるメンバーが顔をそろえる委員会だ。そんな中にあっても、引っ込み思案にならないように私はいつも自分を奮い立たせて、発言することにしている。まずなぜ自分が委員会にいるのか、ということを自分に思い出させる。若輩者とはいえ、10年にわたって社会問題や環境問題にたずさわった経験があり、5年間地球憲章起草委員会にいて、国連とは馴染みがあるんだ、ということを自分自身に言い聞かせる。

午前7時50分

 バックパックからバインダーを取り出す。(もし私が地球憲章について発言をするなら、その成立の経過について復習しておいた方がいい)。地球憲章とは、私たち人間の地球に対する、そして他の人間に対する行動の倫理的な規範として書かれた文書。様々な委員会が、世界各地の市民社会からの声を集め、それをひとつにまとめたものだ。それはそれは長い道のりだった。(委員会が草案に同意するだけで3年もかかったのだから!)。またそれが私にとって、国連というものを体験する最初の機会であり、ひとつの理想を世界中に受け入れられるものへと翻訳し形成していく過程を学ぶ、最初の機会でもあった。現時点でこの地球憲章は世界の4000以上の組織、団体、自治体、政府によって承認されるに至った。

午前7時54分

 電車はいくつかの駅の巨大な看板広告の前を通り過ぎる。人々のこころをひきつけようとするキャッチフレーズの数々。9・11以後つくり出されたおびただしい数のうたい文句。「持続可能な発展のための世界サミット」にも、もっとましな名前とキャッチフレーズが必要なことは間違いない。今年は1992年にリオデジャネイロで開催された「環境と発展のための国連会議」(「地球サミット」とも呼ばれた)の10周年にあたる。(12才のときそこでしたスピーチがきっかけとなって、私はこうして国連の委員会などによばれるようになったわけ)。リオのサミットでは本会議の他に、NGOフォーラムや一般市民参加の会合などが2週間にわたって展開された。かつて開かれた各国の首脳の集まりとしては最大のものとなったこのサミットで、21世紀の世界の発展の道すじとして「アジェンダ21」という計画が生まれた。「持続可能な発展」という新しいことばもそこで生まれたのだった。

午前8時2分

 香水の広告が過ぎ去る。世界中で一年に5000億ドルから3兆ドルものお金が広告に使われているが、そのうち必要最低限の衛生や医療のために使われている広告費は130億ドル。欧米だけで120億ドルが香水の広告に使われているというのに。その趣旨に反して92年のリオ・サミットは、運動が世界的に盛り上がった一時代の終わりを示しているようにも感じられる。ここ10年、世界の関心は経済成長に集中した。そこでは資源保護とか、より公正な国際化なんて後回し。今日、世界では巨万の富が広告と、より富める国々に住む人々の贅沢品のために使われている。

 水産資源の乱獲は途上国の10億人以上にとっての主要なタンパク源を一掃しようとしている。過去20年の間に、中南米とカリブ海沿岸諸国の熱帯雨林の700万ヘクタールが消失し、アジアとサハラ砂漠以南のアフリカではそれぞれ400万ヘクタールが失われた。その見返りとして人々は何を手に入れたの? 切り出された樹木の半分以上、そして生産された紙の4分の3が工業先進国で使用されている。地球規模の気候変動に対処するための各国の取り組みを定める京都議定書についてさえ、世界はいまだに合意に達していない。この10年間の気象はありとあらゆる異常な記録をつくり続けているというのに。今年のヨハネスブルグのサミットでは、これまでのそんな10年間をもう一度見直さなければならない。同時に、もう一度「持続可能な発展」という考えに注目しなおす必要がある。ごもっとも。でももっと上手にPRしなくちゃ。

午前8時32分

 寝ぼけ頭のまま、私はコフィ・アナン国連事務総長や諮問委員会の委員たちに何が提案できるのかを考えようと努めた。そして、よし、この3点でいこう、と決めた。その一、暴力やテロの問題と持続可能性という課題との密接な関わりを明らかにすることの重要性を強調する。その二、委員会に地球憲章を支持してもらえるように努力する。その三、国連の会議や委員会における話し合いが無駄にならないように、実際の活動や運動が展開されることになる草の根レベルにまで広報や教育を徹底させることの必要性を強調する。

午前9時00分

 電車はやっとニューヨークに到着し、私は外に出て国連ビルに向かって歩く。街は喧騒に満ちている。世界の中心。

午前9時20分

 入り口で臨時通行証を受け取り、所持品の検査を受けると、私は突如世界中から集まった人々の海の中に放り出される。そこは無国籍の場所。英語でさえほとんど聞こえてこない。サリーをまとったり、ターバンをまいた人々が長身の金髪の男女の一群のかたわらを通り過る。

午前9時25分

 階段を下りて第8会議室へ。円を描くようにならべてある机の中に指定された私の席がある。インドのカムラ・チャウドリとエクアドルのヨランダ・カカバッツェがいるのに気づいた。地球憲章委員会で知り合い、友達になった二人だ。彼女たちがここに来ていることがとても嬉しい。カムラは、価値観と信仰の自己検証によって私たちは世界の変革を達成できると信じている、とてもスピリチュアルな女性。彼女は、ガンジーの「わが人生こそわがメッセージ」ということばをヨハネスブルグ・サミットのテーマにしたいと考えていた。ヨランダは科学者。いつも私達の議論を実際の行動へ、目標へと結びつけようと奮闘してくれる。私たち三人は協力して、地球憲章をこの諮問委員会でも承認させようと目論んでいる。これは、私たち三人がこの委員会で達成すべき最大の目標だといってもいいだろう。

午前9時35分

 まだ始まらない。全員まだ揃わない。私とヨランダはととりあえず来ているメンバーに、私達の地球憲章を支持しようという提案を告げる。

午前10時20分

 開始がずいぶん遅れてしまった。私たち委員のほとんどはもう揃っているのだが。やっと議長のニティン・デサイが入場する。デサイはヨハネスブルグ・サミットの事務局長である。インド人の彼は、いつも私をリオ・サミットの時と同じ12才の子供として紹介する。(ちょっと待って、私はもう22才よ!)

午前10時30分

 国連事務総長アナン入場する予定の時間だ。時間通りアナンが現れる。委員たち(総勢12人)が静かになる。私たちに立ち上がって彼を迎え、彼は席をまわってひとりひとりと握手してゆく。彼は私ぐらいの背丈で、髪は白髪。私の手をしっかりと握った。私たちは席に着き、ニティン・デサイの司会で一人ずつ順番に、最も重要だと思われるテーマを手短かにあげていく。

午前10時46分

 コフィ・アナン国連事務総長が話し始める。静かな低い声で、明瞭に、雄弁に話す。あらかじめ用意したノートを読みながら話す(彼って多分、用意周到な人なんだろうな)。ヨハネスブルグ・サミットが単なる「ああなればいい」とか「こうしたい」とかといった努力目標の羅列にとどまるようでは困ると考える点で誰もが一致している、と彼は言う。そして特に具体的な行動計画とその実施を必要とする10の領域を特定した報告書を提示する(国連での議論には、「報告書」とか「行動計画」とかの特殊な言葉がとびかう)。事務総長はまた国連とNGOと草の根運動とのパートナーシップの必要性について述べる。そして、特にこのパートナーシップと並んで、議論にとどまらない現実的で実践的な取り組みに力点をおくよう、私たち諮問委員会に求めた。

午前10時54分

 諮問委員会がそれに答える。まずカムラ・チャウドリが話す。どんな問題があるかということを人々は頭では理解している。だが、それが行動に結びつかない。なぜか、と彼女は問う。知的理解と行動の間には何が欠けているのか。カムラによればその答えは霊的{スピリチュアル}な組織だ。宗教組織ではなく、霊的な組織。人々の心に触れ、魂に交わるような組織を見つけだすことが必要である。この運動は川の様なもの、と彼女は言う。それが流れとなるためには、一方の岸は科学で、もう一方の岸は霊性{スピリチュアリティ}でなくてはならない。私はこのカムラの考えに賛成だ。地球の現状について私たちひとりひとりに責任があるという考え方を受け入れるためには、より高次の倫理的価値観が必要だと、私も思うから。さて、カムラの発言に続いて、ヨランダと私は委員会に向かって改めて地球憲章を紹介する。

 この憲章こそ、世界中の様々な政府、諸組織、そして個人が、倫理的なガイドラインとして受け入れることのできる、もっとも説得的な枠組みです!続いてドイツのエルンスト・フォン・ワイツゼッカーが話し始める。自分の行動の結果について人々が責任をとるよう法的に義務付ける方がいい、というのが彼の考えだ。ヨハネスブルグ会議がそのためのルールづくりの場になるといい。それは民主主義の再生のためのひとつのテーマだ、とワイツゼッカーは言う。それから彼はグローバル化の問題に話を転じる。彼によると、近年、財という概念が公共のものから、個々人のものへと大きく転換した。今のシステムにおいて肝心なのは経済効率と速さ{スピード}だ。そこではよりスローな経済や機構というものは不利な立場におかれるだろう。例えば民主的なしくみとか、精神性や霊性を重んじる社会のあり方は時代遅れとして罰を受けることにもなる。なぜなら、いちいち人々の考えを聞いたりしなくてはならない民主主義とは、時間がかかるものなのだ。しまいには「人々を大事にし過ぎる社会では経済は失敗する」などという「常識」がまかり通ってしまう。そしてワイツゼッカーはこう訴える。こうした経済優先の考えに対して、私たちは今こそ、もう一度民主主義と持続可能性の思想を守る側に立つのだということを宣言しなければならない、と。

 タタルスタン共和国のヴィクトール・ダニロフ=ダニルヤンはロシア語の通訳を通じて演説した。(それにしても彼の眉毛の見事なことといったら!) グローバル化とは何か?とまず彼は問い直す。このことばの定義が必要だ、と。グローバル化とは、本来、国を超えた交流を求めることであり、国境がなくなることを願うことではなかったのか。ところが経済のグローバル化では、競争にこそ最高の価値が置かれて、個々の人間の悲劇など問題にもされない。この経済一辺倒、金銭万能の考え方にこそ、現在進行中のグローバル化の危険な本質があるのだ。そして最後にヴィクトールは、地球憲章を支持すること、そしてタタルスタン共和国としてもそれを批准していると宣言して、話を結んだ。

 スワジランドのマクブ博士は、地球規模の思索の中から私たちを連れ出して、彼女を取り巻く現実へと引き戻してくれる。その穏やかな、やさしい声で、彼女は、ここに集う私たちひとりひとりが、各々全く違った立場からヨハネスブルグ・サミットに向かおうとしていることを思い出させてくれる。地球の状況について、私たちひとりひとりの理解はとことん違っている。HIVウイルスの問題でアフリカがこんなにも苦しんでいる時、私たちはなお環境における持続可能性の問題を同じテーブルについてどのように議論できるのだろうか。そもそも発展などと縁のないような場所について、持続可能な発展をどう議論できるのだろう。アフリカでは科学と技術が遅れをとっている。私たちはそれについてどう議論したらいいのだろう? 議論を避けてはいけない。ここにこそ問題の核心がある。格差に引き裂かれ、全く違う立場に身をおく人間たちが、どうやって同じテーブルについて、理解しあうことがでるか、ということ。

 ゲピン・クの発言になる。(私たちは小さい翻訳用イヤホンを着ける。)感じのいいこの中国人の教授は、環境と発展との切り離せない関係、「北」と「南」が負うべきそれぞれ別の責任、両者の対立について語る。彼が貧困の根絶こそ先決だと考えるのは、それなしには持続可能性なるものなど不可能だから、だ。貧困の問題と環境問題とを切り離すべきではない、というわけだ。

 この発言を受けて、次に立ったヨランダ・カカバッツェは、環境と持続可能性の問題がいかに密接に貧困、開発、格差の諸問題と絡み合っているかを説明してくれる。そしてこの繋がりを重要視するよう国連事務総長に要請する。いいぞ、ゲピン、ヨランダ。それこそ私の最も言いたいことだったの!

 さてこれらの発言を受けて、アナン国連事務総長が演説する。一体、彼はどのようにして私たち諮問委員の討論を活かしてくれるんだろう、と私はちょっと心配だ。こんなにたくさんの問題を抱えて、国連に果たして何ができるというんだろう?

 「ありがとうございます。これら重要なテーマを提出していただき嬉しく思います。私は霊性{スピリチュアリティ}、協力{パートナーシップ}、政府、大学に関する皆さんの議論に同意するものです。隣人に気を配るというのは人間性の基本に関わる道徳的義務であります。また政治とか政府とかという考え方そのものが問われています。それを誰が人々に説明するのでしょう。例えば、インドネシアのある人が金曜日まで仕事して、また月曜日に職場に行ってみると、会社が倒産していたとする。その人は“どうなってるの?”と尋ねるでしょう。誰かがこう説明する。ニューヨークで誰かがボタンを押したんで、お金が無くなったんだ、と。これで彼が納得しますか。できるわけがない。これがグローバル化の結果の一例です。多くの人々には理解できないものです。どうすればそんな人々とこちら側の世界との間に相互理解の橋を架けることができるのでしょうか。 

 「科学とHIVをめぐる議論についてですが、昨日ダボスで私は聴衆にこんな話をしていたんです。1975年から1997年の間に世界で1233種の新しい医薬品がつくられた。しかし、熱帯地域の病気のための薬はそのうちの13だけで、実際に商品として発売されたのはたった4つだけだった。なぜか? それは貧しい者には購買能力がないからです。私たちは薬品会社に働きかけて、原価に近い値段で売るように頼み、また政府がそれを支援するよう要請しなければなりません。HIV問題は開発問題と関連しています。それはアフリカから未来を奪おうとしています。教育と開発が密接な関係にあることはすでに明白でしょうが、同様に、保健と開発の関係もまた人々にとって明白なものにしなければなりません。世界は、健康で、教育のある労働人口を必要としているのです。

 「先の提案の中にあったように、この世界を構成するものとして政府、私企業、そして市民社会の三者が考えられます。この三者になんとか一緒に働いてもらうようにする、というのが私たちにとっての最大の課題です。市民社会はどの程度発言権をもっているか?私たちは彼ら一般市民がもっと動きやすいように便宜を図る立場にあるのですが、実際には、彼らの方が私たち国連よりも先を行っていて、私たちより活発に発言し、行動している。私たちは彼らをコントロールできないし、彼らもコントロールされたくないし、その必要もありません。しかし、前に進むためには、彼らにも話し合いのテーブルについてもらう必要があるのです」

 アナン事務総長は言う。彼の10点に及ぶ報告があなた方諮問委員会の提出した諸課題に対応するものと確信している、と。私はあなたたちの思いに共鳴している、と。
 そう言いながらも、彼は最後にこうつけ加えざるを得ないのだった。国連のできることには限りがある。変化をつくり出す主体は結局のところ、あなた方市民なのだ、と。

 アナン事務総長の演説は終わり、私たちは「責任の所在」という問題を抱えたまま、後に残される。私たちみんなの未来に責任をもっているのは一体誰? それは私たちみんな。では国連とは何だろう? それは、地球規模の危機を前にして、今必要とされている大変革のためのコーディネート役。私たち地球市民がこの変革の事業に参加するための枠組みづくりをするのがその役目。

 一方私たち市民には、まず自分たちの消費行動についての責任という問題があるだろう。それが世界の裏側にいる人々にどんな影響を与えるかを私たちは知らなければならない。9・11以後、人々が他者の痛みをわが痛みとして感じることができるのを私たちは見てきた。だから、もし自分のライフスタイルと他者の苦しみとの間に相関関係が見出すことができるなら、その時人は自分の価値観を見直し始めるかもしれない。でも、その価値観の転換は国連によってではなく、私たち自身によって引き起こされるしかない。

午前11時40分

今日国連事務総長が私たちと過ごすことのできる時間はこれで終わり。彼は私たち諮問委員会を後に残して、側近たちとともに退室する。私たちは、委員会としての勧告書をまとめ上げるために、議論を続けなければならない。

13時00分

 ミーティング・ランチのため私たちは同じ国連ビル内の食堂専用フロアにある個室へと移った。政治局の面々と一緒にカクテルとフルコースの食事をとる。ワインと、デザートのチョコレート・ムースケーキ。同じ諮問委員で前回出席していたジェーン・グドールが今回は欠席でさみしい。彼女がチンパンジーの鳴き声をまねて、テーブルに居並ぶ著名なお歴々を歓迎するのを見るのはとても愉快だった。彼女がいないとはいえ、私には今回の会議も確かに、面白いものとなった。様々な違った見方に私は出会った。そしてそれぞれに善意と良心が溢れているのを知った。にも関わらず、私にはこの会議から何が生まれるかについて、確信をもてないでいる。

14時30分

 私たちは階下の議場に戻って議論を続ける。

17時30分

 私はもうクタクタ。会議が終了する前に、私は地球憲章の短い要約を書かねばならない。私たちのグループが提出する「価値観の共有」報告書のためだ。すでに私は3つの会議に招待されていた。サミットへ向けたジャカルタでの準備会合(PrepCom4)、ゲピン・クによって組織される中国での学生集会、そしてヨハネスブルグ・サミット。これらの見知らぬ土地に旅行できると思うと、確かにワクワクするけど、同時に私は、国際会議をまるで旅芸人のように渡り歩く国連外交の常連にさせられるような不安をも感じた。ここでの議論とか報告とかを、行動と取り違えてはならないぞ。でも、大丈夫、と私は自分に言い聞かせる。ここにいる委員会のメンバーのほとんどは、それぞれの地元に帰って草の根レベルで活動する人たちだもの。ああ、それにしても、国連というものへの自分の関わりについて考える度に、私はいつも相矛盾する思いでいっぱいになってしまう。

18時17分

 私はニュー・ヘイヴンへ戻る電車の中。

20時11分

 タクシーが私の住むエジウッド通りの家の階段の前で止まる。車から降りた私の前に、顔見知りのホームレスの男性が現れて、小銭を乞う。私は賭けてもいい。この人が「持続可能な発展のための世界会議」について、何一つ聞いたこともなければ、聞きたくもないだろうっていうこと。国連に私たちの委員会のような会議が存在していることはとってもいいことだし、私のような者を招いてくれるのはうれしい。でも、そこでの議論も、実際に人々の住む地域的な日常の次元に届いて初めて意味を持つということを、私は忘れまいと思う。そこにグローバル化の悪影響と環境破壊の矢面に立たされている人々の声があり、またそうした世界の変革のためのコミュニティのプロジェクトがある。この草の根レベルでの仕事が、一日を費やした今日の国連での会議より、はるかに長いスローな時間を要するものであることは言うまでもない。

翻訳:ナマケモノ倶楽部