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あの伝説のスピーチが生まれるまで

炎と煙に包まれたアマゾン
あの忘れ得ぬ体験から

2001年5月5日ブラジルサンパウロAPG 国際ビジネス会議演題「事を起こすための技術」より(前編)

セヴァン・スズキ
12年ぶりにアマゾンの森に帰り、カヤポ族と再会。

あの12歳のときのスピーチを
振り返って

セヴァンが今、思うこと

 こんにちは。ゼヴァン・カリス・スズキです。92年のリオ会議でスピーチをした、あの12歳の子どもです。リオでの私のスピーチがきっかけで、こういうタイトルの話をみなさんにする事になった訳ですから、どうして私が12歳の時に地球サミットでスピーチをすることになったのか、ということをお話したいと思います。この話を聞けば、あなたたちの国がどれほど私の人生に大きな影響を与えてきたかがおわかりになるでしょう。
 私は、なにか動きを作っていこうと挑戦していくような家庭に生まれました。私の父もそうです。なぜなら父は日系カナダ人だったので、第二次世界大戦中カナダ人の子どもだったのに収容所にいれられていたからです。
 私の母は私が物心ついたときから活動家でした。母はよりよい学校システムや自分がよいと信じたもののために闘ってきました。女性ですから、平等を勝ち取ることがいかに重要であるか、母はよく知っていますし、また、子をもつ母として、よりよい未来のために闘うことの重要さもよくわかっています。

カヤポ族の家族と過ごした日々

1988年、私が8歳、そして妹のサリカが5歳だったとき、両親はブラジルの環境保護活動家や先住民の人たちからの依頼で、アマゾンで計画されていた水力発電ダム建設を阻止する闘いに深く関わるようになりました。
 もしこれらのダムが造られたら、何百もの先住民の村が立ち退かされ、何千匹もの野性動物や鳥がすみかを失うのです。あなたがたはアルタミラでの先住民の会議を覚えているかもしれませんね。先住民の連合は勝利をおさめ、世界銀行は融資を見合わせました。そして今日に至るまでダムは造られていません。私はまだほんの子どもで、両親はブラジルに行っている間も家にいましたが、そのとき聞いたすべての事を覚えています。そしてそれらすべてが、どれほど胸躍るできごとだったろう、と想像していました。
ダム反対闘争には勝利しましたが、その結果カヤポ族のリーダーのところに「殺すぞ」という脅迫が来るようになりました。かれは私の両親の家がカナダにあることを知って、事が収まるまで彼の家族全員でカナダに移住して私たちと一緒に住もうと決めたのです!考えてみてください。低地アマゾンの熱帯雨林で、石器時代同様の生活をしていた家族が、ヴァンクーバーの町にやってきたのです。
 かれらは私たちと一緒に6週間過ごしました。両親と妹と私は、彼らと一緒にブリティッシュ・コロンビア州を旅して回りました。そしてあちこちでミーティングを企画し、ブリティッシュ・コロンビアのロング・ハウスやスモークハウスの中で、カヤポのリーダーと現地の先住民が、これから自分たちが生きていく上で必要な戦略やお互いの文化を交流・交換する機会を設けました。私たちはこのカヤポ族の家族ととても親しくなりました。私たちはかれらに雪や海を見せてあげました。そしてなんといっても彼らのお気に入りは・・・・水族館の鯨だったのです。

炎と煙に包まれたアマゾンの森で

次の夏、そのカヤポ族の家族が低地アマゾンのシング渓谷にあるかれらの小さな村に私たちを招待してくれました。その旅は、一生消えないほどの影響を私に与えました。妹と私は旧友に再会し、その他のカヤポ族の子どもたちともすぐ友達になりました(私たちがお互いの言葉をわからないことは、なんの障害にもなりませんでした)。カヤポ族の人たちは私たちに多くのものを見せてくれました。どうやって電気ウナギをつかまえるか、どうやってツクナレに矢をいるのか。どこに亀は卵を隠すのか。かれらは私たちを森に散歩に連れていき、新鮮なパパイヤを切って昼ご飯にしてくれました。私たちは川で泳ぎ、岸辺では人々が小さなピラニアを釣っていました。
 私たちはカヤポ族のように、何千年も同じようにして生きてきた人々のように暮らしました。アウクレのそのときの経験は、私の心に永久に刻み込まれました。私がそこで経験した熱帯雨林の多様性と美しさが、もっともっと自然について学びたいという私の気持ちに火をつけたのです。そしてそのおかげで、その後、何年間も生物学教室で研究することになったのです。私はアウクレで、ブラジルの森に恋に落ちました。
 しかし、しょせん私たちはその世界の人間ではありません。やがて私たちがそこを去る日がやってきました。小さな飛行機が舗装されてない小さな滑走路に降り立ち、私たちを乗せて飛び立ちました。森林をはるか後に、レデンカオの都会にむかって。
 しかし、森の端の方を見ると、なんと森が燃えているのです!夢中で森を見下ろすと、大きな火の手があちこちに上がっていて、そこから煙が渦巻いて上っているのが見えました。すぐに飛行機も厚い煙に巻き込まれました。太陽に向かってまっすぐ目を開けられるほどでした。煙は飛行機の中まで入り込んできました。
 この飛行経験が私の人生を変えました。たったいま、信じられないような美しい世界が存在する事を知ったばかりなのに、その直後にそれが燃えているのを見ることになるなんて信じられませんでした。その火事の背後には経済的な理由があったのか、それともほかの何があったのかは知りません−私の幼い心はただこう叫んでいたのです。「こんなのいやだ!こんなの違う!」
 地元の青年組織の助けで、私たちはECOというグループを作り、定期的にニュースレターを発行しました。若い世代の人たちと、私たちが学んだ情報を分かち合うためです。実際私たちは多くの事を学びました。
 ECOの活動は大変楽しいものでした。私たちはいつも積極的で、楽しみながら(母はいつも話合いの時にはクッキーをくれました)、絶えず新しいこと、とても興味深いことを学んでいました。

リオでの国連環境サミットへ

11歳のとき、トップの政治家や各国首脳が集まって最大規模の会合が開かれるらしいという噂を家で耳にしました。どうやらブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開かれるらしい。国連は、この会合で20世紀の残された期間の方針を決め、また21世紀に向けて、より持続可能な生き方につながるようなものにこの会合がなることを望んでいました。
 私は、この会議の結果によってもっとも利益をうける、または苦しむ結果になるのは私たち(子どもたち!)なのに、この会議には若者の代表がだれもいないことを知りました。私は両親に「ECOこそ子どもたちの代表としてブラジルに行くべきだ!」といいました。すると両親は「おまえは頭がおかしい。会議には3万人もの人たちが参加するのだ。動物園みたいなもので、人の間でもみくちゃにされるのが落ちだ。」といいました。
 でも私はとても頑固だったので、友達や周りの人々にこの考えを訴え続けました。すると、突然みんなは私たちにカンパをしてくれ始めたのです!母は、私が実はどうやってお金を工面したらいいのかわからないのを知って、また、案外これはいいアイディアかもしれないと思ったらしく、私たちを助けてくれるようになりました。お菓子を焼いて売ったり、持っている本を売ったり、アクセサリーを作って売ったり、母はどうやって資金集めをするのかを教えてくれました。さらに、どうやってものを売る場所を借りるか(そのためのお金がないときに)、どうやってイベントをビラやポスターで宣伝するか等々。両親は私たちに、どうやって私たちの主張に人々の耳を傾けさせるか、スピーチの方法をコーチしてくれました。資金集めのイベントや、地元の人たちの支援もあり、私たちは五人の代表をリオに送るのに十分なお金を集めることができたのです!ラッフィ(ヴァンクーバー在住の子どもの歌手)さえ私たちの強力な支援者になってくれて、私たちと一緒にリオに行きました。
 両親の言ったとおり、リオは動物園みたいでした。覚えている方もおられるでしょう。町はきちがいじみていました。リオの中心街は軍隊が一杯、市内ではいろんなイベントが繰り広げられていました。私たちはNGOグローバルフォーラムのブースを一つ借り、興味を持ってくれる人になら誰にでも声をかけました。機会があればどこででもちょっとしたスピーチをしました。いつでもインタビューに応じ、質問に答えました。

あの伝説のスピーチへ

そしてとうとう、リオ滞在の最後の日、最後の瞬間に私たちはあの最高のときを迎えたのです。ユニセフ議長だったグラント氏が、「あの子たちも全体会に参加させるべきだ」とサミット議長のモーリス・ストロングを説得してくれて、私たちはそこでスピーチをするよう言われました。地球サミットの会場に向かうガタガタ揺れるタクシーの中で、半狂乱になって原稿をなぐり書きしたことをいまでも覚えています。私と他の四人のメンバーは、なんとか私たちが世界のリーダーたちに言いたいことすべてを一つのスピーチにまとめようとがんばりました。
 私たちは警備の人たちの間をすり抜けてセッション会場に駆け込みました。大きい会場一杯の重々しい代表の人たちを前にしてあがってしまう時間さえありませんでした。そして、私は自分のスピーチを始めました。
 私のスピーチの内容はお話ししましたよね。(このときのスピーチについては次ページ参照)私は自分が12歳であること、何が私にとって大事であるかを話しました。私は自分の将来について恐怖を抱いていることを話しました。「あなたたちは経済界の指導者としての義務や官僚的な政治家としての義務より、まず親として、祖父母としての義務を果たしてください」といいました。「あなたたちの下す決定が誰に影響を及ぼすのか思い出してください」といいました。かれらに、わたしにとって本当に価値があるものは何なのか、という話をしました。
 スピーチが終わり、人々は立ち上がって歓声を上げました。驚くほどの反響がありました。政治家、各界の代表、ドアマンまでが目に涙をいっぱいためて、本当に大事な事を思い出させてくれてありがとう、と私たちにいいました。私のスピーチはサミット会場のある建物全体に再放送されました。私たちがやり遂げたいと思っていたことを達成できるなんて、だれも思ってもみませんでした。
 すべてはアマゾンの森の火事を見たときに始まったのです。そこで強く何かを感じたのです。その出来事は私に強さをくれました。
 私に、外に出て小さなグループを組織し、何かをやろうとするたくましさをくれたのです。そして、いろいろなことをやり続けるなかで、私の人生は大変豊かになったのです。たくさんの勇敢で刺激的な人たちに出会うことができました。(次号へつづく)


セヴァン・カリス・スズキ
 カナダの豊かな自然のなかで育つ。
 9歳の時、環境子ども組織(ECO)を設立。環境問題につい数々のプロジェクトで成功を収め、92年リオの国連地球サミットに参加。その後、国連環境会議でグローバル500賞を受賞。一方で、アマゾンの先住民の人たちと緊密に連携し、破壊的な木材伐採の脅威から森を守る活動を展開。
 2000年夏にはきれいな空気を求めるキャンペーンの一環として、自転車でカナダを横断。
 2001年にはブラジルアマゾンのシング渓谷のピンケイチ研究センターで2ヶ月間、生物学を研究。
 現在コネチカット州ニュー・ヘイヴンのイェール大学の4年生に在学し、生態学と進化論的生物学を専攻。

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