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忘れ得ぬ人々との出会い

「農薬を使わないでコーヒーができるわけないじゃないか」
と言われた時代を経て、ついに実現した有機コーヒー国際会議

ウインドファーム代表 中村隆市の講演から

 みなさん、こんにちは。
 私は、昨日の開会式のときにも話したことですけども、この国際会議の実現を本当にうれしく思っています。感動しています。今から7年ほど前に、私はジャカランダ農場のカルロスさんと出会ったのですけども、その後一緒に仕事をさせて頂くなかで、いつかこういう場をもてたらいいなと、長い間思っていました。
 今日は、会場に懐かしい顔触れの方をたくさん見つけました。何十人もの懐かしい方とお会いしました。
 この会議の開催に協力して下さった皆さん、それからこの会場にお越しいただいた皆さん、本当にありがとうございます。ブラジルのなかでも遠方からたくさんの方が来られていますし、また、エクアドル、コロンビア、メキシコ、オーストラリア、日本から約30名の方がいらしています。
 午前中の講演を聞いていまして、はじめてこのブラジルに有機栽培のコーヒーを探しに来たときのことを思いだしました。有機栽培というのは、農薬も化学肥料も使いません。そのどちらも使わないというのは、むずかしいだろうということはブラジルに来る前から考えていました。それで化学肥料は使っていてもしょうがいなけども、無農薬栽培のコーヒーがどこかにあるのではないかと思ってブラジルのあちこちを探して廻りました。しかし、そのときの反応は皆さん同じでした。「農薬を使わないでコーヒーができるわけないじゃないか」誰もがそんなふうに答えました。 それから11年経った今日、午前中の講演を聞いていまして、これほどまでに内容が深まっていることに本当に感動しています。
 今日、私がお話することは、フェアトレードとはこういうものだ。あるいはフェアトレードというのはこうあらねばならない、ということではなくて私自身が、なぜフェアトレードに取組んだのか、そしてフェアトレードに取組んでどのように感じてきたか、どのようなことを考えながらやってきたのか。そういったことをお話したいと思います。
 私は若いころ、映画監督になろうと思っていました。それで、今村昌平という映画監督が作った映画の学校に通っていました。今村昌平という監督はカンヌ映画祭でグランプリを二度獲得した方です。その方が教えてくれたことがあります。どんな人でも他人に負けない表現ができるということを教えてくれました。
 それはどういうことかといいますと、自分自身のことを表現することだと教えてくれました。今日は今村昌平の教えに従って、私自身のことをお話したいと思います。

幼いころの体験
 「いのち」について考える

 私の祖父は私が6歳の頃に病気をしていました。大変重い症状で苦しんで長い闘病生活の末になくなりました。幼いころに、そうしたことを見てきたためでしょうか。
 私は、人間の一生というものに対して、大変ネガティブなイメージを持ってしまいました。
 人間というのは、いつかは死ぬものなのに、どうして生きないといけないのか。
 誰でもいつかは死ぬのに、なぜ生きないといけないのか。ということを思いました。
 幼い数年間、ずっとそのことを考えていたんですけども、幼い私のなかでは、そのことを解決する答えはでてきませんでした。
 そして、中学、高校と、野球ばかりしていました。
 野球ばかりやっていたために、大学の受験も失敗しました。そして、建設現場や港での船の荷物を積み込んだり、降ろしたりするような肉体労働の仕事をたくさんしてきました。なかには、ナイトクラブのバーテンなどの仕事もやってきました。若い女性に囲まれたりして、けっこう気に入ってました。

水俣病との出会い

 そんな私がどうして有機農業とか、フェアトレードとかそういったことに関わりだしたかといいますと、先程言いましたように、映画の学校に通っていて毎日のように劇映画を観ていたんですけども、あるとき友人に誘われて、ある記録映画を観ることになりました。その映画が、水俣病の映画でした。
 この病気は、1950年代から化学肥料や塩化ビニールを製造していた日本チッソ肥料という会社が排水溝からメチル水銀というものを垂れ流しにしていたことで発病しました。その垂れ流しにされていたメチル水銀が海の魚や貝類などに蓄積されていきました。その魚や貝を食べた人たちに、このような病気が起こったのですけども、そのなかで、このスライドにありますように、お母さんが妊娠しているときに食べたメチル水銀によって、胎児性の水俣病の患者さんが沢山生まれました。
 この水俣病の被害というのは、約20万人の被害者がでています。そのなかで1300人以上の方が亡くなりました。
 実は私は1955年生まれで、私と同じ年代の胎児性水俣病の患者さんたちが、たくさん生まれています。そして、この水俣病が発生した熊本県が母の故郷です。私自身がこの水俣病で生まれてきても全くおかしくはなかったのです。私はこの映画を観て、大変ショックを受けました。それまで私は、社会的な問題には全く関心がありませんでした。この映画を観てはじめてそういったことに目を向けるようになりました。
 それから私は多分、自分の人生のなかで一番本を読んだと思います。手当たり次第に公害の問題、環境の問題を書いてある本を読みあさりました。足尾銅山鉱毒事件、イタイイタイ病、四日市ぜんそく、カネミ油症、サリドマイド、スモン病など知らないことばかりでした。農薬の問題を世界に告発したレイチェル・カーソンの「沈黙の春」を読んだのもこのころです。

ある作家との出会い

 私は、そうした本を読むなかで、ある地方で、売れない本ばかり書いている作家と出会いました。その人は松下竜一さんという方です。松下さんは幼いころから病気がちで、そして、片方の目も見えずに、喘息やいろんな病気を幼い頃から抱えていた方です。松下さんは「身体が弱かったために、作家ぐらいしか自分が生活していける道はないと考えて作家になった。」といいます。
 そして、この方が、海の埋め立ての反対運動をしていました。この海の埋め立てというのは、当時、日本は高度経済成長のまっただ中で、山を切り崩し、海を埋め立てて、日本中の自然を破壊しながら、工場や、工場の集まりであるコンビナートをいろんな所に建てていました。
 その一つが松下さんの住むところ、これは私の住んでいる福岡県のとなりの県です。ここに、大分県と福岡県にまたがる巨大な埋立て地を作って、それを大きなコンビナートにしようという計画でした。

人々の健康さえ守れない社会が豊かな社会と言えるのか

 コンビナートの計画を進めている人たちは、「多くの人が文化的な生活、ある程度経済的に豊かで文化的な生活をするためには、少しぐらいの環境破壊や環境汚染や、それから少しぐらいの健康被害ぐらいあっても仕方がないんだ」というふうに主張していました。
 これに対して、松下竜一さんは、「誰かの健康を害してしか、成り立たないような文化生活であるならば、その文化生活の方こそ問い直さねばならない。」と主張し、国や企業と真っ向から対決していました。私は、この松下さんの考え方に共感して、この運動に参加しました。そして、私は国に対してだけではなく、目先の利益に左右されて、利益を得るためには、環境や人々の命軽んじる企業というものに対しても、嫌悪感を抱いていました。
 そうした気持ちが強かったものですから、私は企業というもの全体に対して、極端に否定的な印象を持っていました。そのために結婚して赤ん坊が生まれて、それでも会社に就職しませんでした。私の女房は母乳の出が悪かったものですから、ミルクに頼る必要があったのですけれども、そのミルク代にすら困るような状況になってしまいました。
 そんなときに、「貧乏作家」を自認している松下さんが、私の家族の状況を見かねてミルク代を援助してくれました。しかも、松下さん夫妻のそれぞれが私の家族に援助してくれました。
 この出来事は、その後、私が生きていくうえで二つの面で、大きな影響を及ぼしたと思います。
 一つは、自分の生活がぎりぎりの本当に厳しい生活をしている方が、そういう方がさらに人を助けることができる、そういうことを実践する人が現実にいるんだということを知ったことです。ある先住民族の話に、「金持ちから援助を受けたときには、お礼を言えばいい。しかし、貧乏な人から援助を受けたら、一生忘れてはいけない」という話がありますが、私も、このことを忘れることはないでしょう。
 もう一つは、私はそれまで企業に対して嫌悪感を持っていましたから、会社に就職せずに、環境保護の運動に関わりながら、ときどきアルバイトをする程度でやってきました。しかし、そうした生き方が、誰かに迷惑をかけてしまうということをそのとき知りました。身体の弱い松下さんの優しくてつよい生き方は、その後の私に大きな影響を与えています。

有機農業との出会い 百姓見習いから生協職員に

 今もそうですが、その当時も日本の農薬使用量は単位面積あたりで世界一でした。
 合成化学物質の中でも農薬や食品添加物などは、使用開始後、数年から十数年後に、発ガン性などが確認され、製造が禁止されるといったことが続いていました。日本人の死亡原因は1981年からガンがトップとなり、死者の中でガンが原因で亡くなる比率が年ごとに高くなり、現在は3人に1人がガンでなくなっています。そのことは四人家族だと1人か2人がガンで亡くなることを意味しています。特に、気になっていたのは、30〜50才代の働き盛りや子どもたちのガンが増えていたことです。
 また、アレルギーの増加が著しく、特にアトピー性皮膚炎が小さな子どもたちに激増していました。
 そうした社会背景の中で、私は有機農業生産者になることを目指していました。しかし、20年前の日本では、新しく農民になること自体がとても難しい上に、農薬や化学肥料を使わない有機農産物は形が不揃いなことや虫食いがあるため「見た目が悪い」ことを理由に「商品価値が低い」と見られていました。
 農村に移住して、有機農業を体験しながら、そうした現状を見てきた私は、自分自身が生産者になることよりも、有機農業を広めるときにネックとなっている流通業と消費者の意識を変えていくことに関心を持つようになりました。

生産者と消費者との距離を縮める

 24歳で生活協同組合に就職した私は「有機農産物を販売したい、それを生産する人を増やしていきたい」ということを希望しまして、生協の中で有機農産物の担当になりました。有機農産物の担当者になって、最初に私がやったことは、昨日の開会式でも話されましたし、今日の午前中の講演でも度々話が出ている生産者と消費者との距離を縮めるという活動でした。
 これは具体的にどういうことをやってきたかと申しますと、生産者と消費者が、一緒に、今日セルジオ・カブラルさんがビデオを映して下さいましたけども、あのような農薬問題のビデオを観て、最も農薬の被害にあっているのは農民であること、また、農薬だけでなく、合成洗剤なども、いかに川を汚し、海を汚しているか、そういったことを学ぶための学習会をたくさん開きました。
 そして、学習会の他に、実際に生産者の農場を訪れて、生産者と消費者が、一緒に農作業をしました。草取り作業や堆肥の散布も、昼間の暑いときに、汗を流しながら体験し、食事をともにするなかで対話も活発になり、だんだんと生産者や有機野菜に親近感がわいてきました。
 そうした共同の作業を積み重ねていくなかで、消費者のなかに生産者や有機農産物に対する愛情が育ってきました。それまで多くの消費者は、有機栽培の数少ない野菜が売られているときに、例えば虫が食べた穴を見て、こんなものは買いたくないという反応を示していました。それが、一緒に農作業をして、生産者のいろんな苦労を知ることで、有機農産物に愛情を感じるようになっていきました。

自分たちが買うものは、安ければ安いほどいいのか

 そうしたことが続けられていく中で価格の問題が話し合われるようになりました。それまでの消費者は、自分たちが買うものは、安ければ安いほどいい、その方が自分たちにとっては得なんだと思っていました。その結果、生産原価にも満たないような農産物の価格が問題にされず、有機農業の普及を難しくしていました。
 農産物は有機農産物であろうと一般の農産物であろうと、世界中でそうですけども、工業製品に比べて、圧倒的に低い価値です。そうしたことが、農産物にたいして愛情を持ってきた人たちにとっては疑問になってきました。このままでいいだんろうか。生産者がこういった農産物を作ってくれて、私たちはそれを食べることができて元気に生活していける。それなのに、生産者は生活が楽ではない。そういう状態に対して、消費者はその問題を生産者だけに押し付けるのではなくて、消費者が一緒に分かち合おうという考えを持つようになったのです。そうした考えが広がってくると、生協の内部だけではなくて、一般のスーパーマーケットやデパートでも有機農産物が販売されるようになってきました。

チェルノブイリ原発事故との出会い

 そのように生協のなかで、有機農産物がどんどん拡大していったときに、旧ソ連のチェルノブイリで、原発事故が起こりました。
 1986年のことです。今から14年前のことですけども、そのとき原発事故の放射能が日本までやってきました。8千キロ離れた距離でしたけども、放射能は地球全体を駆け回りました。
 日本の有機農産物も全部、放射能で汚染されました。そして、私が特にショックだったのは、日本の若いお母さんたちの母乳から放射能が検出されたことです。
 このことは、放射能の影響を最も受けやすい赤ん坊が、放射能の危険にさらされていることを示していました。そのことは私には大変ショックでした。そしてさらに、私が考えさせられる問題が起こりました。
 それは、放射能で汚染された食品類が日本に輸入されはじめて起こりました。そのときに政府は汚染食品に対する一定の基準を設け、その基準よりも、汚染されているものは、輸入をしないという処置をとりました。これに対して消費者団体や生協は、さらに汚染のレベルを低い値で設定して、政府の決めた基準では危険である。子どもたちにはこうした危険なものは食べさせられないという消費者運動を展開しました。 こうした消費者の行動は、間違ってなかったと思います。

放射能汚染食品はどこに行くのか 途上国との関係を考える

 しかし、私が非常に考えさせられた問題は、その汚染されて日本に輸入されなかった食品類が、どこに行ったのだろうかということです。私はそれを調べてみました。
 すると、それらの多くが発展途上国の、特に経済的に貧しい国に届いていました。
 私は、このことがキッカケで途上国との関係をそれまで以上に深く考えるようになりました。翌年、生協を退職して有機農産物産直センターを設立しましたが、そこでは地域でとれる有機農産物や石けんなどと共に、南米の無農薬栽培コーヒーの販売も始めました。そして私は、単に市場より高い価格で生産者からコーヒーを買い取るだけではなくて、生産者の顔が消費者によく見えて、生産者と消費者との心が通じるようなフェアトレードを目指してやってきました。モノだけが動くのではなくて心も一緒にうごくフェアトレードを目指してきました。そのことは、モノよりも人を大切にすることでもあります。
 例えば大手商社はここ数年、有機コーヒーというものに興味を持ち始め、たくさん買い始めました。このことは有機コーヒーの生産者にとっては、大変喜ばしいことだと思います。しかし、私の考えるフェアトレードは、商社が行っているような取引ではありません。今、有機農産物を扱っている商社、特に、有機コーヒーを扱っている商社のなかには、一方で有機コーヒーを扱い、一方で農薬を販売しているところも多いのです。さらに最近は遺伝子組み換え作物を開発したり、販売したりしています。

現代人は、これまで人類が食べなかったものを食べ始めた

 環境ホルモンの例でも分かるように、これまで「微量だから安全」といわれていた農薬が近年、極微量でも大変な問題を起こすことが分かってきました。遺伝子組換え食品もそうですが、現代人はこれまで人類が食べてこなかったものを食べています。
 今の科学がわかってないことが、数年後、数十年後にいろいろと解ってきますが、今私たちは、まさに人体実験をしていると言っても過言ではないでしょう。
 「遺伝子組み換えによって、人体や自然に将来何が起こるか分からない」と世界の議論が分かれているときに、アッという間に私たちの食卓に遺伝子組み換え食品が、忍び込んでいます。
 話を有機コーヒーに戻しますと、今年、商社が有機コーヒーを買ってくれた。だから、来年も再来年も買ってくれるとは限りません。生産者が安心していつまでも有機コーヒーを作っていける、そのような買い方をしてくれる保証はありません。もし、今、有機コーヒーを買い付けている相手よも、もっと有利な有機コーヒーが出てきたときには、そちらの方に動いていく可能性が非常に大きいわけです。その商社が自社の利益が一番の目的であった場合に、そのようなことが起こってきます。

モノとのつきあいでなく、人とのつきあいを大切にする

 私が考えているフェアトレードとは、そうしたものではなくて、モノとのつきあいではなくて、人とのつきあいを大切にするものです。
 これから有機コーヒーを作ることが拡大していって、それを購入する商社が増えていった場合に、私が最も心配していることは、これまで一般の農産物がそうであったように、国際的な市場経済に組み込まれて価格が低迷し、生産者が安心して農業をやっていけないようなことが、有機コーヒーでも起こってくるのではないか。
 そういうことを大変心配しております。
 有機コーヒーのフェアトレードというものはまだまだ少なく、マーケットも、まだまだ小さいということを私はよく知っています。だからこそ、今日のような国際会議を開催したわけです。私の会社がやっているフェアトレードとはどのようなものかということを少し説明したいと思います。 私の会社のブラジル事務所の代表者であるクラウジオ牛渡は、この会議を準備してくれた一番の功労者ですけれども、彼は毎月のように、クリチバからこのマッシャードの農場までやってきます。そして、農場を見て回ってカルロス・フランコさんや農場のスタッフと話をして、レポートを日本に送ってくれます。そしてジャカランダ農場のスタッフもときどきレポートを送ってくれます。
 2年前に日本で国際有機コーヒーセミナーを開催しましたが、そのときにはジャカが日本に来まして、多くの消費者、生産者とも交流し、フェアトレードというものをよく勉強し、深く理解しました。そして、今では、私たちが知りたいことを理解して「農場では今月、こんな農作業をしている。コーヒーの成育はこんな状況で、農場の中でこんな出来事が起こった」そんな内容を日本に毎月のように知らせてくれます。

農場の子どもたちからのメッセージ

 それから、スタッフだけでなくて、農場のスタッフの子どもたちも農場での出来事や自分が考えていることを作文に書いて送ってくれます。10歳くらいから15歳くらいの子どもたちがそういった作文を送ってきてくれます。
 そうして作文やレポートや、それからクラウジオは農場のビデオや写真を送ってきますので、それを日本の消費者が一緒に見ます。そして、私の会社を訪問して、焙煎をしている様子を見学したり、農場から送られたビデオを見たり、私の説明を聞いたりして、生産者がどんな農業をしているか、どんな生活をしているか、ということの理解を深めています。
 そして、逆に消費者がジャカランダ農場のビデオや写真やパンフレットを見ている姿やコーヒーを飲んでいる風景を写真やビデオに撮ってブラジルに送ります。農場のスタッフが、家族と一緒にその光景を見ます。2年に1度位は消費者が直接、農場を訪問し、交流を深めています。こういったやりとりをするなかで、生産者から消費者、消費者から生産者へ、お互いのメッセージを交換しています。
 私が1年に1回、あるいは2回、このマッシャードのジャカランダ農場を訪れるときに大切にしていることは、コーヒーを見て回るということももちろんしますけれども、それ以上に、農場のスタッフの家を訪問することを大切にしています。
 そのときに私は日本の消費者のメッセージを伝えたり、ちょっとした身の回りの出来事をスタッフやその家族と話し合うだけですけども、彼らにとっては、自分たちが作ったコーヒーを実際に飲んでいる人たちが、どう感じているかということは、非常に興味深いことです。

消費者からのメッセージに感動 生産者の喜び

 消費者からのメッセージのほとんどは「美味しくて、安全な有機栽培のコーヒーをありがとう、これからもずっとこのコーヒーをつくり続けて下さい」といった内容がほとんどです。
 今までこうしたフェアトレードがなかった時代に、生産者は自分たちが作ったコーヒーがどこの国に行って、どんな人たちが飲んで、どう思っているのか全く分かりませんでした。そのことが消費者との心の通うフェアトレードによって分かるようになったのです。

フェアという言葉に含まれる意味

 私はこうした活動を通して、フェアという言葉には、いろんな意味が含まれていることに気づきました。途上国と先進国とのフェア。生産者と消費者とのフェア。自然や生物と人間とのフェア。現世代と後世代とのフェアなど、さまざまな意味が含まれていると思うのです。逆に言えば、それほどに現代はアンフェアな時代だと思います。私たちは、誰かを犠牲にしている限り、幸せになることはできないと思うのです。
 私はこうしたフェアトレードに取り組むことに喜びを感じてやって来ました。特にカルロスさんと一緒に仕事をしていると、ほんとに幸せな気持ちになることができます。
 そんな気持ちで仕事をやっていると、不思議な出会いが続きました。あるとき日系の新聞社からジャカランダ農場とのフェアトレードの取材にやってきました。
 口数の少ないもの静かな若い記者は、私の話を聞きながら、何かを深く考えこんでいるようでした。翌年、彼は私の会社に就職し、一冊の本を書きました。それがジャカランダコーヒー物語です。今、最前列でビデオ撮影しているのがそれを書いた矢野君です。

不思議な出会いの連続
 出会いが出会いを招く

 このジャカランダコーヒー物語はその後、いろんな出逢いをもたらしてくれました。
 本が書かれて2ヶ月後のことです。ブラジルから宮坂四郎さんが私の会社を訪ねてこられました。宮坂さんは、このジャカランダコーヒー物語を読んで、感銘を受けられたそうです。そして「今年、コロンビアで開催される国際有機コーヒーセミナーに、カルロス・フランコさんとあなたを招待したい。できるだけ、たくさんの人に、このフェアトレードを知って頂きたい」ということで、招待して下さいました。
 そのコロンビアの国際有機コーヒーセミナーに参加して、私は国際有機農業センターのラモン所長やメキシコの生物学者パトリシア・モグエルさんと出会いました。その縁でコロンビアやメキシコからも有機コーヒーも輸入することになりました。
 宮坂四郎さんが私の会社を訪れた2ヶ月後に、ある日系二世の青年が会社を訪ねてきました。その青年が、先ほど紹介したクラウジオ牛渡です。彼の紹介でジャパン・ブラジルネットワークというラテンアメリカの環境保護と持続可能な農業を支援しているNGOと出逢いました。今、ミナス州のコーヒーがJBNを経由して、大地を守る会に届いています。

エクアドル・インタグコーヒーとの出会い
 環境保護と持続可能な開発のモデルケース

 このように、一つの出逢いがいろんな出逢いを生みだして、1998年の日本での国際有機コーヒーフォーラムに続くわけですけども、そのフォーラムでエクアドルの先住民市長やコーヒー生産者と出会いました。彼らは、自然を破壊して重金属汚染を招く銅山開発に反対し、美しい自然環境を守りながら有機コーヒー栽培を地域に広めることで、銅山開発を食い止めようとしていました。
 その人たちが今回も来て下さっているエクアドル、インタグ地区の生産者の皆さんです。子どもたちにとっては、こんな大人がたくさんいたら素晴らしい世界になるだろうなと思えるような活動をされています。
 日本での有機コーヒーフォーラムにオーストラリアのアニャ・ライトという歌手が参加していました。アニャ・ライトは、今エクアドルで、地域の人たちと環境保護活動と有機農業を柱とした持続可能な開発のモデルケースづくりをすすめています。
 そのアニャと一緒にフォーラムに参加したのが、文化人類学者の辻信一さんです。私にとっては運命的とも思える出逢いでした。
 辻さんとアニャと私たちは「ナマケモノ倶楽部」という国際的な環境保護団体を作りました。この話は明日、辻さんたちから話していただきます。

チェルノブイリ支援コーヒー

 もう時間が余りありませんが、もう少しだけ大事な話をさせてください。
 さきほど、1986年のチェルノブイリの原発事故の話をしましたが、その原発事故があって、旧ソ連のベラルーシ共和国、ウクライナ共和国、ロシア共和国は大変な被害を被りました。500万人以上が被曝し、100万人以上が移住を強いられました。
 これがチェルノブイリの原発事故です。このように爆発しています。これはドイツのテレビ番組ですが、この原発事故の復旧作業に参加した人たちが約80万人います。
 20代から30代の若者がほとんどです。彼らは、放射能によって被曝しています。これは放射線による火傷ですけども、この人も後に亡くなっています。これまでに、数千人とも数万人ともいわれる事故処理作業員が亡くなっています。身体にいろんな症状が起こっており、神経や脳細胞などに異常が起きて苦しんでいます。
 この映像の子どもたちはみんな甲状腺ガンを患っています。放射能の怖さは、年齢が若いほど放射能の影響を受けて病気になりやすいということです。
 このベラルーシ共和国という国は、旧ソ連が解体して以来、経済危機に陥っていまして、私も毎年この国を訪問していますが、ここの経済状態というのは、平均月収が 70ドルで、南米よりも苦しい状態です。そのため、病院の医療器具や医薬品は慢性的に不足しており、外国の支援がなければどうにもなりません。例えば、甲状腺ガンの手術を受けた子どもたちは一生、ホルモン剤を飲まなければ死んでしまいますが、そのホルモン剤でさえ十分に確保できていません。また、放射能汚染地に住む人たちは、遠く離れた専門の病院に行く交通費や宿泊費がないため、検査を受けることが難しく、病気が悪化したときには、すでに手遅れということも起こっています。
 こうしたチェルノブイリの現実を知るにつれて、私はチェルノブイリ原発事故の被害者を支援するためのチェルノブイリ支援コーヒーというのを作りました。有機コーヒーを販売しながら、その収益を薬や医療器具、検査機器などを購入するための費用にあててきました。初めて、この活動を一緒にやってくれた生産者もカルロスさんでした。今年は、ブラジル有機コーヒー生産者協会からもこの活動にカンパをして頂いています。協会のみなさん、本当にありがとうございます。
 このチェルノブイリの支援活動にとても熱心に協力してくれた若い女子高校生がいました。彼女はチェルノブイリまで出かけて、私たちの活動に参加してくれました。その高校生は、それから五年後の今年、私の会社に就職してくれました。あそこにいるのが、その寺嶋悠さんです。
 彼女は現在、会社の仲間と共に「重債務貧困国」つまり、重い借金を抱えて苦しんでいる途上国の借金を帳消しにするという運動に、熱心に取組んでいます。

途上国を苦しめる「援助」
 重債務貧困国の債務帳消しが必要な理由

 フェアトレードで手をつなぐ民衆同士の視点から国際経済や「途上国援助」を見ていくと、さまざまな問題が見えてきます。例えば、多くの日本人は日本を援助大国だと思っていますが、その中身を見ていくと、無償援助がほとんどの北欧などに比べて日本は有償援助、つまり貸付が多くなっています。しかも、その貸し付けた資金は、道路や飛行場や電力などに使われることが多く、結局、その後に進出する日本企業の事業が展開しやすくなるようなことに多額の援助資金を費やしています。
 つまり、途上国援助のためのODAが、その国の経済的に貧しい人々の役に立たず、援助する国の企業のための援助になっているということです。
 それ以上に問題なのは、援助を受けた国々は借金返済のために、本来なら、飢えに苦しむ貧しい人々の食料や医薬品に使うべきお金まで、借金返済に充てているのです。しかも、借金の数倍も返済しているにも関わらず、金利が高くて、借金がどんどん増えています。借金が減らない理由は、金利が高いということ以外に、発展途上国が輸出している農作物などの価格が、不当に安くなっているためです。つまり、借金の高金利と輸出品の低価格、この二つに苦しめられているわけです。その結果、これらの国では、子どもたちが飢え死にしたり、病気になっても医療を受けられないということが、増えているわけです。
 寺嶋さんは、チェルノブイリや重債務貧困国の子どもたちが、その国に生まれたというだけで、医療を受けられず、餓死していくという問題を見過ごすことができないのです。
 こうした若い人たちと出会い、一緒に仕事ができることも私の喜びです。

そして、見つかった答えとは

 最後に、私はカルロスさんや宮坂さんの生き方を見ていて、私自身が幼い頃から悩んでいたこと、人間というのは、いつかは死んでしまう、それなのにどうして生きないといけないんだろうかという問題を今、このように思っています。
「すべての人間は必ずこの世を去る日がきます。しかし、限られた命だからこそ、この人生を大切に生きたいと思っています。」

※この講演録は、農業学校での国際会議を始めとしたブラジル各地での中村隆市の講演をまとめたものです。

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