悲しいお知らせ 2003年7月

ブラジル、ジャカランダ農場のカルロス・フランコさんが、ブラジル現地時間で7月4日朝8時頃、心臓病のため自宅で永眠されました。1927年8月22日生まれの75才でした。
「農薬なしにコーヒーができるはずないじゃないか」と言われていたブラジルで、有機コーヒー栽培のパイオニアとして、試行錯誤を繰り返しながら有機コーヒーの栽培を根づかせ、多くの農民と共に、ミナス州の南部を「有機コーヒーのメッカ」ともいわれるほどの地域に育てました。
ジャカランダ農場にはブラジル各地、中南米各国からも生産者や研究者が見学に訪れ、有機農学校の役割も果たしてきましたが、カルロスさんはいつも見学者に対して、消費者と連帯することの重要性も語りかけていました。そして、フェアトレードでつながった消費者からのメッセージをうれしそうに紹介していました。

逆に、見学者から学ぶこともありました。特に、エクアドルやメキシコの生産者や研究者と交流するなかで、森林農法(アグロフォレストリー)に興味を抱き、農場の中に植林する樹木を増やしていきました。農場の名前に「ジャカランダ」という樹の名前を付けたように、カルロスさんは、子どもの頃から樹木が大好きでした。

また、カルロスさんは自ら話すことは、ほとんどありませんでしたが、20代の後半から福祉活動に熱心に取り組まれ、ストリートチルドレン、一人暮らしのお年寄り、赤ん坊を抱えた少女たち、エイズの子どもたちなどの世話を続けてこられました。人も自然も大切にするカルロスさんが、1980年から無農薬栽培に切り替えた最大の理由は「いのちを大切にしたい」ということでした。農場で働くスタッフの健康、土中の微生物や虫や小鳥などの、弱いもの、小さな「いのち」をあたたかく見守っていたカルロスさんは、作今の武力によって国際問題を解決しようとする暴力的な世相を悲しんでいました。

この十年間、フェアトレードを通じてカルロスさんと共に歩んできた私共にとっていかにカルロスさんの存在が精神的な支えであったのかを今更ながら痛感しています。以下に、ウィンドファーム現地スタッフのクラウジオ・ウシワタからの手紙(抜粋)を掲載させていただきます。

金曜日の朝にカルロスさんの孫、ジョン・ギリエルメさんから電話で悲しいニュースが届きました。すぐに、中村さんに国際電話で報告して、この知らせをメールで多くの人に流し車でカンピナス市へ向かいました。午後7時にカンピナス市のプレズビテリアン教会に着き、カルロスさんのご家族と会いました。悲しい、とても悲しかった。涙が止まらなかった。今も信じられません。気持ちを言葉に出来ません。私たちの痛みと悲しみの気持ちとして花束を差し上げました。

亡くなる2日前の7月2日にカルロスさんと電話で話しました。カルロスさんがセキをしていたので、風邪に気をつけてくださいと言ったら、カルロスさんはもう良くなっていると返事をしてくれました。 
カルロスさんは、亡くなる前日にジャカランダ農場に行きました。しかし、体調が悪かったので、自宅のあるカンピナス市に戻り、病院に行きました。おそらく、旅発つ前にもう一度ジャカランダ農場に行きたかったのだと思います。

カルロスさんは7月4日の当日、朝早く起きて、シッキーニャさんとの結婚52周年の記念日であるため、奥さんにオメデトウといいながら、キスをしました。朝食をとる準備をしたのですが、体調が悪いためベッドに戻り、寝て急に心臓が止まり亡くなりました。

カルロスさんは亡くなる前の一週間に息子全員と娘のテルマさんと会い、話しをしました。これは神様の行いだと思います。神様は、この世を旅発つ前にカルロスさんに、そのチャンスを与えました。

カルロスさんは、中村さんと僕が何時来るのかを時々聞いていました。息子さんともよく話していたそうです。今考えると、たぶんカルロスさんは、僕たちとももう一回会いたかったのだと思います。僕のミスでそのサインを読み取れなかったのです。

ジャカランダ農場のジョゼ・アイルトンさんは、カルロスさんの遺体を見ることがイヤだったので、どこかに逃げて誰も見つけることができませんでした。セバスチオンさんは、一日中泣いて体調が悪くなり、娘さんがカンピナス市の教会まで行かせませんでした。ジャカランダ農場の皆様は大変悲しんでいるようです。

カルロスさんは天国で有機農業をやって行くと思いますが、残された私たちには、かなりの責任が残った気がします。しかし、カルロスさんがまいた種は花と果実になるのではないかと思います。

7月の下旬に、カルロスさんの御家族と共に、お墓参りに行ってきました。御家族のお一人お一人と、そして、農場のスタッフたちとカルロスさんの思い出をゆっくりと語り合ってきました。その話の中で、こころに残る話がありました。「お父さんは、亡くなるまでの最後の十年間、フェアトレードで日本とつながった十年間が最も生き生きしていた。とても幸せな人生だった」という皆さんの言葉でした。私もそう信じています。そして、こう思います。
「カルロスさんは、多くの人を幸せにしてくれた人だったなあ」と。
幸せにしてもらったうちの一人が私でした。

カルロスさんは、とてもゆったりと人に接する人でした。人の話をよく聞き、ゆっくりと考え、おだやかに自分の考えを話す、ときどき冗談を言って皆を笑わせる彼は、そこにいるだけで、周りの人に安らぎを与える人でした。そして私に、生きることの素晴らしさを教えてくれた人でした。

ウィンドファーム 代表
中村隆市

※なお、ジャカランダ農場は、カルロスさんがお元気な頃から一緒に農場で働いていた息子さんとお孫さんが中心となって、農場運営を続けておられますので、今後もウインドファームとのフェアトレードは継続されます。

ブラジルの新聞“FOLHA(フォーリャ)”の紙面より

カルロスさんの訃報が、ブラジルの新聞“FOLHA(フォーリャ)”2003年7月5日の1面に掲載されました。

フォーリャの紙面 画像をクリックすると拡大されます。

以下は記事の翻訳です。

紙面よりカルロスさんの記事を抜粋

カルロス・フランコ氏の訃報

昨日の朝、カンピーナス市(サンパウロ州)にて農村の実業家であるカルロス・フェルナンデス・フランコ氏が亡くなりました。地域におけるオーガニックコーヒー生産のパイオニアで、日本市場へも輸出しています。カルロス・フランコ氏は、地域の道義的な自然保護の代表者でした。

篤志家で分かち合いを重んじるエンジニアのカルロス・フランコ氏は、特に若い同胞にチャンスを与えることを喜びとしていました。彼の飾らない人柄は、生活を共にする人々へ日々、教えを施すことにも現れていました。

カルロス・フェルナンデス・フランコ氏は、1996年11月に出版の雑誌"イマジェン&コンテウード(映像と内容)"の表紙を飾りました。

埋葬はカンピーナス市にて行なわれました。

2面より抜粋

達人(脚注1)に向けて

金曜日の昼前、同僚のセルジオ・ペディーニを通じてカルロス・フランコ氏死去の知らせを受けました。命が終わりを告げ、取って代わる人のない寂しさは、友人らを悲しみに包みました。

私達のメディアにはカルロス氏の存在は、常に困難に立ち向かう活力そのものでした。なぜなら博識な彼は、我々に新たな道や出口を示し、そして人の一生を導く能力がありました。

彼の旅立ちに、「ALTERIDADE (アウテリダージ)(脚注2)」という言葉の本当の意味を感じ取りました。つまり、他者を受け入れ、隣人を受け入れることです。

その飾らなく模範的な人柄で、生活環境や農場労働者の家族への重責を果たしました。さらには、“本質は所有に勝る”総合的で持続可能な開発と呼ばれる責任も果たしました。

マシャード(脚注3)の住民として、マシャードが我が国の国境をも超えて行く活動をして、地域全体に新たな展望を創造して行きました。

凡庸が支配しそうな時、個人の利益が共通の利害や利益を脅かす時が来ても、マシャードとその地域は、尊厳を熱望する人々のため威厳ある試みを実行して道を照らす人を失っているのです。尊い友人カルロス・フランコ氏を賞賛する理由は、人生のあらゆる戦いの中で、あらゆる相違(脚注4)と共存する能力を持っていたこと。また、彼の常に変わらぬ心構えと、社会に敏感なところを深く尊敬します。

偉大な達人はいなくなりました。しかし、決して人の道や道徳心、尊厳を失うことのない家族、汗を流し、新たな試みの探求は引き継がれて行くでしょう。

悪を排除した土地を求める強い意志と希望を持った達人の記憶を生き生きと伝えるため、持続可能で環境に優しい有機農業への約束を再認識する必要があります。


訳者注

(1) 達人
記事のタイトルで、原文は「マイスターへ」という言い方です。ここではカルロスさんを意味します。この記事を書いた記者は、カルロスさんとかなり親しい人だったようですので「カルロスさんへ」、「カルロスさんへ捧げる言葉」となるでしょう。
(2) ALTERIDADE (アウテリダージ)
アイデンティティーの対義語らしく、それに合う日本語が思いつかなかったところです。
意味は、「他と同一であること」で、アイデンティティーを確立する初期過程は、己は他と違うという意識が芽生えて、他を排斥する傾向が意識的・無意識を問わずあり、そこから他者を嫌悪する気持ちとつながる事を否定して、他者を受け入れるのがこの"ALTERIDADE"です。
(3) マシャード
ジャカランダ農場が所在する州、ミナス・ジェライス州にある都市の名前です。
(4) 相違
これはあくまでも直訳で、「...相違と共存する能力を持っていた。」これは、文章の流れから「人の営みの中で起こる不測の事態や困難を受けとめられる度量の人物」という意味となるでしょう。