第3話.幼年時代、豊かな自然のなかで

カルロスが生まれた1927年以降、ブラジルのコーヒー生産量の伸びは著しく、世界の総生産量を上回る2700万俵に達していた。コーヒー価格は下落し、さらに1929年から始まる世界恐慌が追い討ちをかけた。国際市場におけるコーヒーの需要は落ち込み、大量のコーヒー豆が焼却された。ブラジルのコーヒー経済が行き詰まるなか、失業率は急速に高まった。

天日乾燥

天日乾燥

父イザウチーノが経営するセーハ・ネグラ農場には、そのあおりを受けて仕事を失った親戚が、一時期には30人も移り住んでいた。その頃、カルロスの部屋には、7人のいとこが寝泊りしていたという。

米や調味料の他は、家畜や畑から得られる食料を皆で分け合った。サツマイモ、ジャガイモ、トウモロコシ、キャベツ、瓜、レタス、トマト、胡椒など、 1000平方メートル程の自家菜園には1年中、様々な野菜が栽培された。果樹園には、ミカン、ブドウ、マンゴ、フトモモ、パパイアの木々が植えられて、時季によっては家族だけでは食べきれないほどの実がななった。

家畜も一家の食生活を支えていた。家のまわりにいる約30羽の鶏からは卵を、8頭の牛からは新鮮な牛乳を得ることができた。豚舎で飼育される50頭ほどの豚は精肉となり、カルロスの家族だけでなく農場の職員にも分け与えられ、余った肉は干し肉やソーセージにして保存した。また石鹸などの原料となる豚の脂は生活に欠かせないものだった。

農場から得られる食材でいろいろな料理が作られた。豆を煮たフェジョンとご飯、目玉焼き。鶏や豚の肉料理と菜園で収穫された野菜のサラダ。カルロスはとにかくマカロニ料理が好きで、満腹になるまで食べた。トウモロコシはおやつの素材にもなり、牛乳やココナツミルクと一緒に煮込むカンジキーニャや細く挽いて油で揚げるポレンタは、兄弟たちが争って食べた。さらにマンジョッカ芋の粉で作った砂糖入りのビスケットなど、食卓に上がるものは、ほとんど母コルネイアの手作りだった。

生きる糧を与えてくれる自然への感謝の祈りは、食事の前に必ず行われた。「永遠の神よ。このテーブルに着いている私たち全員は、私たちが無限に小さい存在であることを心に留めております。私たちは健全であり、ここにあるものは全て『永遠のもの』から生じた良きものであると考えています。また、あなたが私どもにお与え下さっている全てのものに心より感謝します。とくに、今、私どもが頂こうとしている食事にたいして感謝します。神よ、土を耕している人々、火のまわりで食事を作ってくれている人々に深く感謝いたします。私どもの救世主、イエス・キリストの御名において、アーメン。」

夕食が終わると、長さ3メートルほどの食卓を家族が身を寄せ合って囲み、聖書の勉強をした。その後には、聖歌が続く。

夜、家族の集う場所は、農場内に設置された20キロワットの水力発電により照らされた。1935年、父イザウチーノは、友人のポルトガル人技師の提案を受け、農場の高台に作った小さな貯水池から、高度差75メートルの急斜面にそって鉄製の6インチ管を取り付けた。この管を通り、時速135キロメートルの勢いで丘陵を駆け落ちる水は、12センチほどの水受けがついた半径75センチの水車を回転させ、電気を起こした。コーヒーの実の外皮を削ぐ脱皮機は、この電力により作動していた。

父イザウチーノは、発電機の部品が磨耗しないように、夜間は水の流れを止めて発電機を停止させた。そのため午後9時には家の灯りは消え、就寝の際の祈りとともに家族は眠りにつくのだった。

朝は、牛の乳搾りから始まる。それから30羽の鶏にトウモロコシの餌を与え、その後には畑に生える雑草を抜いた。鶏の巣から卵を運んでくるのもカルロスの仕事で、見つけだした半ダースの卵を母の所まで届けては、目玉焼きをねだっていた。このような作業の手伝いを、カルロスは7才の頃から始めている。仕事をすることに大きな価値を認める父イザウチーノは、月曜日から土曜日まで仕事に携わり、子どもたちもよく働いた。

毎週、日曜日には農場の人々が教会に集まった。そこで聖書を読み、オルガンを伴奏にして聖歌を歌う。農場の中にあった縦6メートル横10メートルほどの教会は、イザウチーノが土壌を提供し、農場で働く人々たちと一緒に建てたものだった。

平日、その教会は小学校の教室としても利用された。7歳から15歳までのおよそ25人の生徒が1つの教室で学び、カルロスの姉のクラリッセが教師を務めた。なかには4キロも離れた農場から歩いてくる子どももいた。

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