第18話.水俣病との出会い

1955年の冬、カルロスがブラジルの大河にいくつもの橋梁を建設していたころ、中村は美しい干潟を持つ福岡県の和白に生まれた。

幼いころから父に映画に連れていかれた中村は、その影響から高校卒業後、今村昌平が作った映画学校に入学する。劇映画の監督を目指していた中村だが、同じ演出科の学生に誘われて、ある記録映画を観たことにより、その後の進路が大きく変わっていった。

彼が見たのは土本典昭監督が記録した「水俣病」の映画であった。「その映画に映しだされる患者さんの姿に衝撃を受けた」と中村は語る。

水俣病というのは、熊本のチッソ工場から排出されたメチル水銀が魚介類に蓄積し、それを食べた人たちの神経や脳が侵され、手足の麻痺、発語、耳、目などへの障害が出る公害病で、死に至ることも多い。妊婦が体内にメチル水銀を取り込むと、その胎児にも重い障害が出てくる。

この映画のなかで、中村は特に2つのことに大きなショックを受けた。1つは、「原因は有機水銀」ということを1959年に熊本大学医学部から指摘をされながら、企業も政府も、市民の健康や命よりも「経済」を優先させたため、1965年に新潟でも水俣病が発生し被害が拡大したこと。

もう1つは、胎児性水俣病の子どもたちのことだった。「大人たちがやったことが、何の罪もない子どもたちに取り返しのつかない重荷を背負わせている」という事実が彼の心に残った。

この映画を見た後、中村の関心は劇映画から記録映画に移り、さらに映画から現実社会に移っていった。そして、現実社会の実態を知るために、環境や食べのもに関する本を、バイト料をはたいて買い集めた。有吉佐和子の「複合汚染」、宇井純の「公害原論」、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」などは繰り返し読んだ。

映画学校では、経済発展か自然保護かを争点とする「ある町長選挙」という記録映画を作る。このとき中村は監督という立場にありながら、最後は「自然保護派」の選挙運動を手伝ってしまう。そのためスタッフから厳しい批判を浴びたが、中村はその後、海の埋立に反対する運動など、環境保護をテーマにした市民運動に関わっていくようになる。

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