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人紀行・水守り人の描く夢

遠賀川流域のゴミ問題に取組む
松隈一輝さん

 16年前から、遠賀川の水を守る活動に関わっている。廃油石けんを作り、会報を作成して、川の環境保護を呼びかけることから取り組みはじめた。
 1年が過ぎ、活動にも満足していた頃、身を縮めてしまいたくなるような現実を突きつけられた。
 ある飲み会の席で、盃を1杯、2杯とかさねるうち、酔いは徐々に深まっていた。突然、1人の友人が向き直り、語りかけてきた。
 「遠賀川の水を守る会が出来て1年が過ぎたが、聞きたいことがある。産業廃棄物のことだ。あんたも知っているだろうが、遠賀川流域の各地で産廃による環境汚染、とくに河川、地下水、土壌の汚染が起こっている。どう思うな?」
 「一応は、知っていますが」
 中途半端な受け答えに、友人の目が少しきつくなっていくのを感じる。「知っていますが」というのは、新聞の記事に載る程度にしか現実を知らないということであった。1度としてみずからの足と目で現場を調査したこともない。産業廃棄物の問題を、意識の外に置き、避けていた。
 そんな自分へ、友人は次第に怒りを募らせる。
 「いや、知っちょるかどうか、そげなんこと聞いちょるっちゃない。会の事務局長としてこの現実をどう考えるかを聞きよるったい」
 逃げられなかった。
 「正直に言いましょう。現実は知ってます。しかし、あの業界に対しては、ある種の恐れを持ってます。産廃業界の暴力的な体質が怖いんです」
 「うーん、怖い? それはわかる。しかし、あんただちは『水を守る会』やろ。現実に産廃によって流域の各地で水が汚染されている。小なりといえども、民間の任意団体とはいえども、看板を掲げている以上、責任があるとやないな」
 「たしかにそうですが」と、その後に続ける言葉が見つからない。指摘通り、年々、産業廃棄物の問題は、深刻さをましていた。とくに遠賀川流域には、炭坑の跡地に建設されるゴミ処理施設が多く、産業廃棄物に起因する事件が頻繁に起こっていた。言葉が、胸に突き刺さってくる。口調の激しさが頂点に達したとき、友人はこう言い放った。
「産廃問題に知らんふりするとなら、水を守るち言いよるばってん、そげな看板降ろしてしまいない!」
石けん教室にて
石けん教室にて
 あの日から、ゴミの問題に関わり続けている。ゴミ。その言葉から忘れられない出来事が思い浮かんでくる。高校生の頃のこと。
 「このクラスは、ゴミ捨て場のようなものですから」。ある教師が授業中にそう呟いた。
 しばらくの間、ぼう然とした頭のなかでその言葉が響く。「ゴミ捨て場」。進学クラスへの昇進を決意して、愚直なまでに試験勉強に励んだ末の、それは挫折を決定的にする言葉だった。
 それを契機に、高校という閉ざされた世界から離れようとした。
 離れて、しかし、どうしたらいいのか。当てはなかった。ベトナム戦争への反対の声が高まる世情のなか、市民運動という活動の場が形成されていた。吸い込まれるようにして、デモ行進の流れに身を委ねた。
 挫折の傷はしばらく癒えなかった。どう生きていけばいいのか。進む先が、見えない、分からない。己で何も決めることができなかった。「世界など、はやく滅んでしまえ」。デモで平和を訴えながらも、それが本心だった。
 デモ行進は、様々な人のつながりから構成されていた。アジ演説をする人。機動隊に突撃する体力と度胸を備えた人。上手に立て看板を作る人。多様な才能が混在していた。何かを伝え、表現しようとする人々の集団だった。
 「自分でも何かができるのではないか」。むずむずと、身体のなかをエネルギーが徘徊する。何かをしたかった。人の多様な活動を見ながら、自らの可能性を模索した。
 自らの可能性、才能。そんなもの自分に備わっているとは思えなかった。でも、努力せずにはいられなかた。
 文章を書く技術を身に付けたいと思った。言葉で、伝えたいことがたくさんあった。文章表現なら遅いスタートであっても努力すれば、モノにできるという確信はあった。書く技術があれば、自分の行動に応じて表現できる。そして、市民運動という舞台のうえで、自分なりのポジションが形成できると思った。
 作文の練習に励んだ。読書感想文を書き、尊敬する人が亡くなれば、追悼文を、心に残る言葉を得れば、そのままノートに書込んだ。
 そうして、技術は得た。その過程において、揺るがない想いも培った。
 守りたいものが、自分には確かにある。そのために、取材や調査を重ねて実体を把握し、言葉を選び、本気の言葉で市民に伝える、訴える。それが、自らの活動の原形になる。
 気が付けば、県庁の一室で、環境行政に関わる職員を前に、本気の言葉を畳み掛ける自分がいる。
―昨年の8月9日に私たちは最終処分場の周辺の土壌8検体を採取し、2検体のダイオキシン検査の結果を9月17日に公表しました。うち1検体は3万4800pg/gでした。数値のあまりの高さに私たち自身が驚きました。しかし同時に、これで県は動いてくれるものと思っていたのですが、見事に期待はずれでした。翌日の各紙朝刊に載った県のコメントが、『土壌のダイオキシン濃度は国の基準がなく、市民団体調査の濃度を評価しようがなく、調査する予定もない』というものだったからです。
 ところで、ご存知のように、11月24日、環境庁の諮問機関「土壌中のダイオキシン類に関する検討会」は「暫定ガイドライン(案)」を提示しました。今年の3月末までには国民各層の意見を取り入れたうえで正式のガイドラインを定めることになっています。県としてはもう「国の基準がない」とは言えないはずです。今、環境庁のガイドラインをどのようにお考えですか。
  「どうするか、何も決めていません」
―国がガイドラインを設ける。そうすれば予算を決めねばならない。方針があるはずでしょッ?
「検討してません」
―エッ、環境庁のガイドラインが翌々月に出るというのに、ほんとーに何も話し合っていないのですか。
「内部での検討はやっていません」
―法律用語はよくわかりませんが、そういう態度を不作為というのではないですか。
「……」
―環境庁のガイドラインでは各自治体がダイオキシン調査をやることを前提としていますが、県の方では、ダイオキシンの調査をする予定はないのですか
「科学的根拠がまだあいまいですから。ダイオキシンの挙動がはっきりしませんから。どのような挙動をするのか、そのメカニズムがわかっていないのです」
―嘉穂郡の稲築町では、町内4箇所でダイオキシン調査を行うことにしてます。前向きに。町にできてできて県にできないということはないでしょうが。今のような発言を県議会の答弁でもなさいますか。不真面目な答弁であれば、抗議を受けるでしょうが。
「推移を見守りたいと思います」
―こんな答弁すると、県議会なら怒りますよ。
「……」
 環境行政の担当者には、言葉が届かない。しかし、それを憂いたりはしない。言葉を伝える、ものを言うことが、自分の役割だから。
 産業廃棄物の実情を訴えながら、自分の意志を超えたある力に突き動かされ、導かれながら言葉を紡いでいる自分に気付く。
 ある力、それが何なのか。もう分かっている。例えば、焼却場の周辺に住む梶原さんの「ダイオキシン調査の結果が分かったとき、自家菜園の野菜を食べるのが恐くなった」という訴え。例えば焼却場に勤め口を求めざるを得ない地元の「被害者たち」。環境汚染に怯えて暮らす全ての人の想い。社会に訴える力を持たない民の声。
 本気の言葉、それは個人の思い込みでは決してないと思う。振り返りて想うは、人のつながり。それは川の流れのような、自分を前へ前へと押し進めてくれる力。その流れの先に描ける夢がある。
 自分の居場所を求めて、デモ行進の渦中に飛び込んだ18歳の夏。あの頃、この先、日本はこれ以上悪くはならないだろう、と漠然と想っていた。あれから30年。人の心や自然は、あの時以上に悪化している。
積み上げられた廃車の山
 ゴミの現場に立つ度に、目を覆いたくなるような光景が広がる。何層にも積み重なった廃車の山。廃油によって変色した土壌。
 最近、愛用の原チャリを盗まれた。数週間後、それは破壊され尽くして帰ってきた。改造しようとしたのではない。ただ、ぶち壊したいという衝動にかられた行為の残骸だった。
 すべての源には、傷ついた心の痛みがある。
 人は、自然を、社会を、地球をぶち壊したいと望むのか。それとも、今、この状態から、再生をめざして進んでいけるのか。
 悲観はしていない。絶えることのない人とのつながりと、繰り返し訪れる出会いのなかで、続けられる限り、ものを言い、水守り人としての夢を叶えたい。

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