目次へ

人紀行
石草窯で陶芸を営む 中村 滋さん

山の彼方に見つけた場所

  高校生の頃から、独りで山に入るようになっていた。ときに授業をサボってその分だけ山で多くの時間を過ごした。山の静寂のなかに独り佇むとき、心が落ち着いた。少しの寂しさも感じない。 
 人間社会でのしがらみに疲れ、「山での自分」を失いかけると、山に戻った。長期間の山行を計画する度に職を変える。ほとんどが単独行。独りになるために、山を求めたのかもしれない。「人に使われるのも嫌だし、使うのも嫌。独りでこつこつ仕事をするのが好き」そんな性格だった。
 「自分を鍛えたい」という気持ちから、岩登りや沢登りなど登山のレベルをさらに上げていく。50キロの荷物を背負い、急な登りの途中、吐き出す息のなかには血の匂いが混じっていた。1つの山行を終えた後、下山してくるパーティーから安く食料を譲ってもらい、再び山に入るというようなこともあった。ずっと山に身を置きたかった。 
 「山登りで生きていけたら」という想いは常にあった。だから山岳救助隊という職業を知ったとき、本気で考え、願書まで送った。が、スキーができなかったため、願いは叶わなかった。「山じゃ食っていけんのぞ」という父が残した言葉の通り、結局、登山を職業にすることはできなかった。 
 結婚して、子どもが生まれたとき「ああ、これでしばらく山に行けんな」と思った。しかし、それ以上に、静寂を奪う登山のレジャー化が、山から遠ざかる原因だった。
 絵画を趣味にしてたので、しばらく風景画の世界に身を置くようになる。それでも満足させる景色と出会うのは難しい。風景に馴染まない目障りな建築物は排除した。 生きる場所を求めて、模索は続く。ある日、妻の次子に誘われて、1日だけの陶芸教室に行った。実用的な次子の小鉢とは対照的に、凝った壁掛け用の一輪挿しを作った。焼き上がりを楽しみにしていたが、結果はみじめなものだった。普通、陶器は焼き上がると、大きさが2割ほど縮まってしまうので、その一輪挿しには、爪楊枝が1本しか入らなかった。 
 しかしその後も、幾つかの窯元を訪ね歩いた。多くの陶器に触れるなかで、「この程度なら自分でも」という想いが強まってきていた。それ以上に、次子の方が、「この人ならもっといい焼き物が作れる」と確信していた。
 田舎で陶芸を職業にしたら・・・。漠然としたイメージが広がる。豊かな自然と、静かな環境に囲まれて、独りで陶器を作っていける。自然のなかを、生活の場にできる。山を登りながら何となく求めていた生活スタイルがそこにあるような気がした。 陶芸に励むため、家から歩いて僅か2分の所にある会社に移った。5時に仕事が終わると、すぐに帰宅して作業場で土を練る。家の横に自分で作った作業場の壁は、薄いプラスチックの板が張られただけ。冬は粘土が凍ってしまう程に冷え込んだ。5年間、そこで黙々と陶器を作った。
 翌月には50歳の誕生日を迎えようとしていた1993年1月。福岡県、赤村に移住。静寂と豊かな自然が残っている赤村を、創作の場に選んだ。が、陶芸作りの前に、自分たちが住むための家を、廃材を使って整えなければならなかった。一方で、次子は畑を作った。少ない収入を補うため、食糧の自給は不可欠だった。家作りも畑作りもお互いに初めての経験。限られた予算で窯を開くためには、身体を動かして自分たちだけの力で作っていくしかない。窯に火が入り、陶器ができるまで、それから1年半の月日を要した。
 寒風に吹かれながら、まず道作りの作業から取りかかり体温を上げ、その後に家屋を修繕した。夜はストーブを一晩中たいて寒さを防ぐ。屋根の修理は、山で使っていたザイルで身体を固定した。
 家屋の修繕には予想以上の時間がかかった。1年たっても、窯を作ることができない。窯がなくては、陶器を作ることもできず、したがって収入も得られない。窯を作るための資金も危うくなりかけた。
 窯に必要な耐熱性の煉瓦を、安価な中国製のものに切り替えることで、ようやく窯の作成に取り組むことができた。煉瓦をコツコツと積み上げていく。こうした作業は最も得意とすることである。6ヶ月かかって窯は完成した。
 作業を見守りながら、次子は心配でならなかったという。窯は、敷地の1番低い所にあるため水が溜まりやすい。こんな場所に作って温度が上がるのか。「もしこの窯で陶器が作ることができなければ・・・」いつしかその言葉は、2人の間で禁句になっていた。
 1996年6月。梅雨の合間に訪れた青空の下、窯に火を入れた。少しずつ、薪の量を増やして温度を上げていく。3日目の夜、温度は1280度に達した。 
 3日間、燃え盛る炎を見つめ続けた。体力を消耗しながらの睡魔との闘い。炎の音を聴きながら、夢と現の狭間を様々な想いが交錯する。
 体力的にもとうに峠を越えた50歳の冬の、それはあまりに遅い船出だった。「もう10年早くはじめておけば、楽だった」
 山で培われていた心身が、それを補った。独りで山に入る場合、けっして100パーセントの力を出し切ってはならない。40パーセントの力で登り、30パーセントの力で下り、30パーセントの力は万が一のためにとっておく。こうした力の使い方を身体で覚えていたため、家と窯ができるまで、体調を崩したり、ケガをしなかったのだろう。
 そのために、山に登っていたわけではない。だが、いつかこのようなことをするために、心身を鍛えておきたいという意識が確かにあった。そして、ずっと抱いていた「山登りで生きていけたら」という想い。家を作り、畑を耕し、煉瓦を積む、作業の合間には、周辺の風景に見入る。蕎麦の花が揺れる畑のその向こうに、扇を幾重にも並べたかのようにそびえる山。また山。その緑豊かな木々が陽に照らされ、風を受ける。1つひとつの作業を通して、山と仕事と生活が融合していった。 
 窯の名は「石草窯」。化学薬品の入った釉薬などは使わず、自然のなかにある石や草を素材にして作りたいという想いが込められている。電気で動くのは轆轤だけ。土練機はなく、夏は汗だくになり、冬は凍てついた粘土に手の感覚を失いながら土を練る。樹を燃やして取れた灰から釉薬を作り、3日間の炎を得るために薪を割る。そうして生まれる陶器は、しかし優しい温かみを帯び、その激しい過程を感じさせない。
 「器にどんな想いを込めて作っていますか?」という質問には、こう答える。「そんな特別な想いはありません。自然のなかで、静かに生活したいと想って、私はこの職業を選びました。お客さんの生活のなかで好んで使ってもらえる、そんな器ができたらいいです」
 移住して5年が過ぎ、今、住居と、菜園と、陶器の展示場と、作業場と、煉瓦作りの窯からなる空間は、山々の柔らかい曲線に囲まれた赤村の自然に溶け込んでいる。少し離れた高台から臨むと、それは桃源郷の如くやさしい光景として映る。特に春の風のなかにあるとき、山桜に包まれるその情景は朧に霞む。
 「山の彼方に、見つけた場所」そう書いてもいいですか?」と問うと、少し照れながら立ち上がり「まあ、いいんじゃないですか」と頷いてくれた。
(本誌 矢野宏和)

「石草窯」
福岡県田川郡赤村大井良2744番地
電話 0947-62-2815

前の記事 目次へ戻る 次の記事→