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わだあやこ 和田彩子

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 2002年、3月。和田彩子はウインドファームの駐在員としてエクアドルに出発した。当時、26歳。 
 遠く離れたエクアドルへ、一人移り住む。その行動を思いつくに至るまでのプロセスは、次のようなことだった。
 和田彩子がエクアドル・インタグに赴くうえで、一番、大きな影響を与えたのが、 その森に住むカルロス・ソリージャという人物だった。彼との出会いは、四年前に遡 る。

 大学最後の春休み、和田はガラパゴスへの卒業旅行を計画したが、その旅の途中で、明治学院大学の辻信一さんが引率するエコツアーに合流し、インタグの森をカルロス・ソリージャに案内してもらう。
 エクアドルに移り住みたいという思いつきの起点となったのは、森の道で、カルロス・ソリージャと何気なく交わしたこんな会話だった。

 「ここまでは、国の保護林で、ここからは私有地の森です」と、歩きながら話すカ ルロス・ソリージャ。「保護林と私有地と、どう違うのですか」という和田さんの問いに、彼は「保護林は国が保護し、私有地の方は、自分たちでケアします」と、何気なく応えた。
 特に感情を込めたわけでもなく、ごく当たり前に伝えたその説明は、しかし和田にとっては、大きなメッセージとして、心に響く。

 「自分たちでケアする・・・」という説明の中の「ケア」という言葉を、和田は自発的に「愛」と置き換えた。森を、自分たちの手で愛し、守る。その行為に、強い関心を持ったのと、「自分も一緒にやってみたい」と思ったのはほぼ同時。ずっと心に留めていた探し物が見つかりそうで、心が今にも踊り始めそうな気がした。
 「お手伝いできることはないですか?」と、しかし、その時はすぐに言い出せなかっ た。カルロス・ソリージャとはじっくり話をすることもなく、「多分、いや絶対に私の顔など覚えていなかったと思う」ほどの接点しかなかった。

 日本に戻り、就職した。パソコンの技術を活かした仕事に不満はなかった。しかし、何となく残る歯車の一つといった感覚。やがてそれが、明確な不満へと変化する とともに、インタグで言えなかった「何かできることは、ありませんか」という問いかけは、自分のなかで次第に大きくなった。
 いつまでもその問いに対して黙することはできず、ついに和田はカルロス・ソリージャにメールを送る。最初の出会いから3年の月日が流れ、彼が自分を覚えていないのは、確実だった。にもかかわらず、その返信として、インタグでやってもらいたい仕事のリストがカルロス・ソリージャから送られる。

 仕事の内容は、日本との連絡やパソコンの整備など、インタグと日本の架け橋的な役割だ。和田がエクアドルに赴く半年後には、エクアドルにおいて国際フェアトレー ド会議が予定されており、その準備も含まれる。
 「クラウジオさんが目標」と和田は言う。「クラウジオさん」とは、ウインドファーム社の南米事務局長、牛渡クラウジオ剛(ブラジル・クリチーバ市在住)のことである。ジャカランダ農場の現状報告にコーヒーの輸出業務、有機認定に必要な書類の準備など、その多岐に及ぶ彼の仕事を一言で表現するとすれば、まさに「架け橋」ではないだろうか。2001年にブラジルで成功させた「有機コーヒー・フェアトレード国際会議」をはじめ、クラウジオはその架け橋という仕事を年々豊かにしてい る。

 およそ地球を半周隔てた国と国の人々が行き交いも、その架け橋があってこそ可能になる。文化の異なる二つの国のそれぞれの人々から信頼されなければ、架け橋たる人物とはなり得ない。クラウジオを目標としている和田も、そのことは十分承知だ。
 ゆえに、不安は残る。小学生時代をアメリカで過ごし、高校時代にはチリに留学という海外での経験も豊富。父親の仕事の都合で、転校も多かった。自分を「根無し草」と表現するほどに、様々な場所を転々としてきた和田をしても、こう思うときがある。「果たして、インタグに押しかけていって、自分が必要とされなかったら、ど うしようかと・・・」と。「過去に前例もなく、全くのゼロからのスタート」であるから先行きも見えにくい。

 しかし、その一方で確実なこともある。すなわち、インタグコーヒーのフェアトレードを持続させていくためには、架け橋となる役割を担う人が、必要不可欠だということ。
 エクアドルに渡って以来、和田の架け橋としての仕事は、今日も続行中だ。エコツアーや会議のコーディネイトやインタグコーヒーの輸出の手配、生産者へのインタビュー。それらの仕事の1つ一つが、インタグとの確かなつながりを構築していく。