「風評被害」 消費者無視 最低の言葉 (静岡新聞 )

「風評被害」 消費者無視 最低の言葉 
(静岡新聞 時評 2011年11月24日)

小山真人(静岡大学防災総合センター教授)

 福島原発災害の発生以来、「風評被害」という言葉を報道で見聞しない日は無いくらいである。しかしながら、この言葉はきわめて不適切であり、廃すべきものである。その理由を以下に述べる。

 近年の災害情報学の研究成果にもとづけば、「風評被害」とは、商品のリスクに対して不安を覚えた消費者の自粛行動が引き起こす経済的被害のことである。風評とは悪い噂を意味するが、噂で広まった事例はほとんど確認できず、大部分は報道によって被害が拡大したことが知られている。

 つまり、実際には風評による被害ではないのに「風評被害」と呼ばれるという自己矛盾がある。「風評被害」を防ぐためには、まずはこうした言葉使いから正すことが重要である。不正確な言葉と、それによる誤解を放置しておくと、その発生メカニズムや防止対策まで不明確になるからである。今後は「消費者の安全不信による経済的被害」などとストレートに表現するのが良い。

 「風評被害」の原因が消費者の不安・不信であり、それが報道によって広まると正しく認識することによって、その対策のヒントも見えてくる。まずは、行政や生産者による情報発信の姿勢と誠実さが厳しく問われる。ここに少しでも陰りがあると、たとえば伏せられたり丸められたりしたデータがあったり、一方的な解釈を添えたり、検査方法・手順などについての十分な情報開示なしに安全宣言や安全キャンペーンなどをすると、それらはすぐに見透かされる。その結果、情報の受け手である消費者との信頼関係が損なわれ、消費者の不安・不信をさらに呼びおこして被害が拡大するという、逆の効果を引き起こすことになる。

 仮にこの初期対応に失敗しても、やがて報道は下火になり、人々の記憶や不安も薄れていく。ところが、それを待たずに、じたばたと下手な対応や会見などをして、そのことが再び報道されると記憶の上塗りが起き、ついには容易に癒せぬ「負の烙印」となって商品ブランドの長期低迷をもたらすことがある。くれぐれも注意すべきである。

 「風評被害」という言葉は、より大きな問題も内包している。グレーゾーンの大きな放射能のリスクにさらされる中で、リスクのとらえ方は人によってさまざまである上に、要援護者や持病の持ち主、乳幼児など、小さいリスクであっても可能な限り避けたい人々もいる。行政や生産者にとっては「風評被害」であっても、当の消費者にとっては実害を未然に防ぐための正当な自己防衛であり、それを「風評被害」と呼ばれるのは全くの心外であろう。

そもそも「風評被害」という言葉の中には、「消費者は風評に惑わされる愚かな人々だ」という暗黙の決めつけも含まれている。要するに、「風評被害」は、行政や生産者の立場と解釈を一方的に押しつけるとともに、その原因までをも消費者に転嫁し、消費者の立場や感情を踏みにじる最低の言葉なのだ。この言葉を使い続ける関係者と、それを無批判に垂れ流すマスメディアに猛省を望みたい。


【琉球新報 6月6日】世界の信用を失う政府 欺瞞の被ばく比較こそ犯罪
(SAVE CHILDから)

本当に「風評被害」か 

アーサー・ビナード

 風評被害で、日本は大変なことになっている。それは、ぼくも認める。みんなで力を合わせ、風評被害に立ち向かい、払拭しなければならないと、ぼくも本気で思っている。ただ、日本のマスコミが取り上げる「風評被害」と、ぼくが理解する「風評被害」の間には、かなりのギャップがある。

 たとえば東京は浅草、仲見世の土産物店の経営者が、外国人の観光客の激減を嘆き、売り上げは9割も落ち込んでいるとため息をもらす。そしてそれが「原発事故の風評被害」と、話がまとめられる。しかし本当にそうなのかと、ぼくはうたぐる。

 実際、福島第1原子力発電所の1号炉も2号炉も3号炉もメルトダウンをきたし、大量の放射能汚染を海に垂れ流し、大気にまき散らして、制御不能の悪夢はいまだに出口が見えない。そんな状況下、好きこのんで高い料金を払い、愛する家族といっしょに国際線に乗り、わざわざ日本へやってくる人は、そう多くはないだろう。当たり前の用心というか、最低限の自己防衛と言うべきか。観光客数減を「風評被害」と呼ぶ者に対して、ぼくは聞いてみたい。「この25年の間にベラルーシやウクライナへ遊びに行きましたか?」

 また、日本政府が「安全だ」と宣言しても、メード・イン・ジャパンの品物を対象に各国の港で放射線測定が行われたり、海外の消費者が敬遠したりしている現状が大きく報道され、やはりこちらも「風評被害」によるものと、結論づけられている。でも3月11日から情報を隠蔽しつづけ、「レベル4」だの「レベル5」だの「格納器は健全である」だの欺瞞のかぎりをつくし、真実を語ろうとしないジャパンのお偉方たちの「安全宣言」を、誰が信じるというのか。日本製品がそっぽを向かれているのは、永田町が世界の善良な市民の信用を溝に捨てた報いであって、「風評」という次元ではない。

 では、ぼくが正真正銘の「風評」として憂慮しているのは何かといえば、原子力の専門家たちの「被ばく比較」がその最たるものだ

 「マイクロシーベルト」という単位を巧みに使って、福島第1原発がもらす放射性物質にさらされている人々の被ばく量と、胃のレントゲン検査のそれとを比べ、「人体への影響はない」とのたまう。あるいは、飛行機で太平洋をわたった場合、乗客1人当たりが浴びる放射線も、もっともらしく比較対象に使って、「心配ない」と言い張る。ところがレントゲンを何回撮られても、筋肉をしつこくむしばむセシウム137が体内に入ることは考えにくい。国際線で頻繁に飛んでも、骨をじりじりやっつけるストロンチウム90につけこまれることは、まずない。

 内部被ばくと外部被ばくをごっちゃにするなんて、医者が内服薬と外用薬を混同するようなもので、わざとやっているなら犯罪的だ。これぞ風評被害

 本当のことをいうと、内部被ばくには「安全」といえるレベルが存在しない。どんなに微量でも、取りこんだ体の組織次第で、病気になる可能性がある。ただし「ただちに」ではなく、数年後に影響が出るので、悪質な専門家たちは今のうちに被ばく比較の風評を堂々と吹いていられる。彼らはきっと責任逃れの「自主避難計画」も、ひそかに練っていることだろう。

 セシウム137の半減期が約30年で、ストロンチウム90のそれは約29年だ。本物の風評被害について、ぼくらもそれくらい粘り強い記憶を、持ち続けなければならない。 (詩人)

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