ウィンドファーム流フェアトレードの20年

第一章 ?フェアトレードを始めるまで?

創立当初の店舗正面
?ウィンドファームの20年を振り返る前に、そもそも何故、有機農業やフェアトレードに関わり始めたのか、ということから聞かせて下さい。
 詳しくは、『スロービジネス』という本に書かれていますが、19歳のときに水俣病の記録映画を観たのが環境問題に関心を持ち始めたきっかけです。水俣病というのは、熊本県のチッソ水俣工場から垂れ流された工場廃水に有機水銀が含まれていて、それがプランクトンから小さな魚、そして、大きな魚へと濃縮されていって、最終的にそれを人間が食べた。特に、胎児性水俣病の場合は、お母さんが妊娠中に食べた魚貝類の水銀を胎児が引き取るようにして、お母さんのいのちを守ったけれども、胎児自身は大きな障害をもって生まれた。そのことが衝撃でしたね。
 水俣病の被害が拡大した理由は、チッソという企業の問題だけではなくて、政府が、市民のいのちよりも経済成長を優先させたということです。1959年に「原因は、工場廃水に含まれる有機水銀」ということを熊本大学医学部から指摘されながら、政府はチッソの操業を停止させなかった。市民の健康やいのちよりも経済成長、つまり、お金を優先したのが、水俣病の根本原因です。


 それまで環境問題など考えもしなかった私が、環境保護に関心を持つようになったのは、それからです。ちょうどその頃、作家の有吉佐和子さんが朝日新聞に『複合汚染』を連載していて、農薬や食品添加物など化学物質の問題と有機農業の重要性を書いていた。それを読んで、有機農業にも関心を持つようになったわけです。それと、大分県在住の作家、松下竜一さんが書いた『五分の虫、一寸の魂』という本を読んで感動しました。そこには、「周防灘総合開発」という名の環境破壊に反対する住民運動が書かれていたんです。
 大分県と福岡県にまたがる遠浅の海をすべて埋め立てて、鉄鋼、石油コンビナートなどの巨大な工業地帯をつくるという計画で、これができると干潟がすべて埋め立てられ、工場から排出される汚染物質によって大気と海が汚染されるため、多くの市民が反対していました。
?それが、「環境権」を掲げた裁判につながるんですね。
 そうです。はじめは市民の多くが海の埋め立てに反対していたから裁判しなくてもよかったのが、そのうち地元の有力者や企業などの圧力によって反対の声を上げる人が少なくなり、埋め立てをくい止めるには、裁判を起こすしかなくなってしまった。市民が海辺を散歩したり、貝堀りや海水浴を楽しんだりしていたのが、ある日突然、許されなくなってしまう。みんなの海だったのが、漁業権が放棄されるだけで企業のものになってしまうことに納得がいかなかった。
 松下さんは、裁判でこんなことを言っていた。「この法廷で、僕が愛する風景が滅ぼされるということが、どれだけの苦痛であるのかを科学的に証明せよと言われても、僕はしきらん。誰だってできん。だから今まで、そういう感情論、心の問題とかいうものは、開発問題では切り捨てられてきた。ここを埋め立てれば何億円儲かるという経済の論理だけで、計りにかけられてきた。そこの風景を愛する心の動きなんて一文の価値もないとされてきた。しかしながら、人間というものは、心の動物なんだ。心があってこそ人間なんだ。その心に影を落とすようなことをして、それが科学的にとか経済的に証明されんからということで抹殺されていくのなら、人間は滅ぶしかない」と。
 松下さんは、幼い頃から身体が弱くて病気が多かったためか、ものごとを考えるときに弱者の立場から考える人でした。だから、環境問題に対して一番の被害を受ける子どもたちや未来世代の声をいつも代弁していた。今では「100万人のキャンドルナイト」に600万人とか700万人が参加するようになっていますが、松下さんは30年も前に増え続ける電力消費に警鐘をならす「自主停電」を呼びかけていました。それで、この人の環境運動に参加したいと思って、映画学校卒業後に大分に行きました。
?裁判は、どうなりましたか?
 一審判決で敗訴して、控訴審をなんとか盛り上げようと、映画好きだった松下さんは、それまで撮りためてきた映像をもとに記録映画をつくろうと考えた。シナリオを松下さんが書いて、私が編集することになりました。そのとき私は23歳で、生まれたばかりの息子を抱えて、カミさんと3人暮らしで、2?3ヶ月かけて撮影や編集、ナレーションなど入れて完成させたんですけど、映画をつくる過程で、わが家のビンボーぶりを松下さんが知ったんですね。うちのカミさんは母乳があまり出なかったんで、粉ミルクを買わないといけなかったけど、そのミルク代にも困るような状態で、質屋に金目の物はどんどん入れて質流れさせていたんです。ほとんどカミさんが大事にしていたものばかり(笑)
 そんなときに松下さんが、「これ、ミルク代に」ってお金を持ってきてくれたんですね。松下さんは自分でビンボー作家を自認してたし、そのビンボーぶりはよく知られてたから、すごく驚きました。それともうひとつ驚いたのは、松下さんの奥さんもうちのカミさんに、ミルク代を渡してたんです。
 
 後年、中南米で仕事をするようになって、先住民からこんな話を聞きました。「金持ちから援助を受けたときはお礼を言えばいい。でも貧乏な人から援助を受けた時は一生忘れてはいけない」と。それを聞いたときに、松下さんのことを思い出しました。それほど、ミルク代を援助してもらったことに感動したんですけど、もう一方で、こんなことじゃダメだなって思ったんです。松下さんのような人に迷惑かけるような生き方じゃダメだと。
?なぜ、そんなにビンボーだったんでしょう?
 もともと怠け者だということもあるけど、一番の理由は、企業とかビジネスがこの社会を悪くしている、公害や環境問題もひき起していると考えて、経済とか、お金に絡むことを毛嫌いしていたんですね。それで、環境運動に関わりながら、たまにアルバイトして、という感じでやっていた。だけど、松下さんのような人に迷惑をかけてしまって、これはやっぱり良くないと思ったんです。
 それで何をするかって考えた時に、自分のやりたいことは有機農業だったんですね。そしたら、松下さんの知り合いに有機農業をやってる人がいて、そこに家族3人で移り住んで、一緒に有機農業の見習いをやったんです。その後、福岡の山村に移り住んで、米と野菜をつくり、鶏を飼って農的な暮らしを続けるわけです。

中村(26才)と息子
?農家以外の人が農業をやり始めるというのは、大変ではないですか?
 ええ、農地を持たない者は、農地を手に入れて農業委員会に認められないと農民になれません。仮にそういう条件をクリアしたとしても、農業で食べていくには、商品としての作物を作って売らないといけない。その商品というのが、とにかく見た目がよくないといけないんです。虫食いなんかあると、まったくダメだし、サイズが小さくても大きくてもダメ、少し曲がっててもダメ、工業製品みたいに同じようなサイズ、形じゃないと許さない、という感じなんですね。農薬のことなんか二の次です。消費者のほとんどは外観だけで判断して、安全性とか美味しさとか栄養よりも見てくれを最優先するんです。そうした態度を見て思ったのは、消費者の価値観を変えないと有機農業は広まらない、ということでした。それで、消費者の組織である生活協同組合に就職して、有機農産物を広める担当になって、生産者と消費者の距離を縮める活動を7年間やりました。
?それは、具体的にはどんな活動でしょうか?
 とにかく消費者は、外観を重視していましたから、まずは生協の組合員と生産者が一緒に農薬の勉強会をしました。消費者のほとんどが「国が安全だと言ってるから安全だろう」ぐらいに考えていたので、農薬中毒の映像を見たり、研究者の資料を読んだり、ガンが増えているグラフを見たり、アトピー性皮膚炎が増えはじめた時代だったので、アレルギーのことも勉強し、その実態の深刻さに驚いていました。そして、畑や田んぼに出かけていって、援農で有機農業の体験をしました。農薬には、虫を殺す殺虫剤、菌を殺す殺菌剤、そして、草を枯らす除草剤などがありますが、除草剤を使わない場合の草取り作業がどんなものか、化学肥料ではなく有機肥料や堆肥を畑に入れる作業がどんなものかを実際に体験してもらうわけです。そして、生産者と一緒に汗をかいて、「いやーこんなに大変だったんですねえ」って語り合いはじめた。
 それから、有機野菜や果物を売る青空市場を各地につくっていったら生協の中にどんどん理解者が増えていきました。それまで文句を言ってた人たちが、「あなたねぇ、そんなこと言うけど、これをつくるためにどれだけ苦労しているのか分かっているの? 虫の喰わないものをつくるのにどれだけ農薬を使っているか、知ってるの?」って(笑)、生産者の立場で発言する人がどんどん増えていったわけです。それで、生協内部でブームのように青空市場が増えていき、その後、生協以外でも自然食品店やデパート、スーパーなどに有機野菜が広まっていきました。そんなときにチェルノブイリ原発事故が起こったんです。

チェルノブイリ原発事故現場
?1986年4月26日、21年前のことですね。
 放射能が地球全体を汚染するような事故でした。事故の前から私は、原発は放射性廃棄物を産み出すから、早く脱原発の道を探さなければならないと思ってたんですが、実際に原発事故が起こって、その放射能が8000km離れた日本にまで流れて来たことに驚きました。初めは、雨水から放射能が検出され、次に野菜や米からも検出されました。特に、赤ん坊をかかえたお母さんの母乳からも放射能が検出されたことに衝撃を受けました。放射能というのは、細胞分裂が活発なほど影響を受けますから、大人よりも子ども、子どもよりも幼児、幼児よりも乳児というふうに、年齢が低いほど被害を受けやすい。母乳しか飲めない赤ん坊にとって、その母乳から放射能が検出されたということは、大変な問題でした。それと、もうひとつ大きな問題が起こりました。それは、放射能汚染食品が海外からどんどん輸入されるようになったことです。
 日本の1986年の食料自給率は、51%(2006年は39%)だったので、汚染がひどい旧ソ連圏やヨーロッパの食品が日本にたくさん入るようになって、日本政府は、一定の汚染値以上は輸入しないことにしたんですね。セシウムという放射能で370ベクレル以上のものは輸入を禁止したわけです。私が働いていた生協は、子どもたちの健康を願うお母さんたちがつくった生協で、とてもいい生協だから「370ベクレルなんて、そんな高い汚染値の食品を子どもたちに食べさせるわけにはいかない」と、国の基準の37分の1にあたる10ベクレルという厳しい数値を決めて、それ以上に汚染された食品は生協では販売しないと決めたんです。子どもたちの健康を一番に考える生協だから当然ですよね。
 しかし、ひとつ気になることがあったんです。日本が今まで大量に輸入していたものをいらないと拒否したわけです。それで、拒否されたものがどうなったのか調べてみたら、その多くが「途上国」といわれる国にまわっていた。もともと日本は、国内でもっと多くの食料を作れるのに作らないで輸入している。世界には飢えで苦しむ子どもたちがたくさんいる中で、外国から大量に輸入しておきながら、残飯をたくさん捨てたり、賞味期限切れで捨てたりしている。中には、賞味期限が切れてないのに捨てられているものも多い。だいたい1日3食のうちの1食分、約1000万トンを捨てている計算なんです。これは、日本の米の生産量より多いんです。そういうことをしている日本が、放射能汚染食品を拒否して、それが「途上国」の人たちにまわっている。特に、放射能は子どもたちに影響を与えるから、それによって子どもたちがさらに健康を害するようなことを我々が間接的にやっているわけです。
?1990年からウィンドファームはチェルノブイリ原発事故被害者の医療支援を続けていますが、原発というのは、南北問題まで引き起こしているんですね。
 もともと原発の燃料であるウランの鉱山の75%以上は先住民の地域にあり、環境破壊に加えて放射能汚染を広げ、地域住民に健康被害を与えています。私は、放射能汚染食品の問題から「先進国」と「途上国」との差別の構造を知ってしまったことで、今まで生協の中でやってきた有機農業運動をこれまで通りに国内だけでやっていくことに居心地の悪さを感じるようになったんです。生協の中でずっとやってきた地場生産、地場消費、地域でできる旬の有機野菜を食べましょうという運動は間違っていない。しかし同時に、私たちは巨大な格差の中に生きて、貧しい国の犠牲の上に成り立っているという事実にも気づいたわけです。
 それ以後、「途上国」の子どもたちが気になりはじめて、頭から離れなくなった。それで、とにかく「途上国」の人たちとつながる仕事をやろう、つながることで何か見えてくるかもしれない。将来、子どもたちのために何かできるようになるかもしれないと考えたんです。それと、脱原発運動を今まで以上にやる必要を感じました。原発大国の日本が自然エネルギーに方向転換していくことで、世界の原発を減らすことにつながるだろうと。それで、1987年3月に生協を退職し、有機農産物産直センターを設立して、途上国とつながる仕事を模索し始めるわけです。
(つづく)

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