チェルノブイリの子どもたちの作文集 「わたしたちの涙で雪だるまが溶けた」

この本の解説を「100万人のキャンドルナイト」のキッカケをつくった松下竜一さんが書いている。東京電力の原発事故が起こったいま読み直してみると、出版当時も印象深かった次の文章が当時以上に響いてくる。        

 チェルノブイリの事故は、「原発をやめるべきだ」という天の声ともいうべき人類への警告であったのではないか。

 日本政府は「日本の原発技術は卓越している」と過信して、いまや世界でも突出してしまった原発推進政策を改めようとはしない。先の兵庫県南部地震によって、日本の技術神話など吹き飛ばされたというのに。

 ベラルーシの少年少女たちが紙背に涙をにじませて綴った本書を、一番心して読むべきは私たち日本人でなければなるまい。

1995年6月に発行されたこの作文集の編集と出版に私も関わった。初版の印刷部数を決めるとき、通常は3000部程度が一般的な発行部数だが、自費出版にしては異例の1万部を印刷した。それは、松下竜一さんが書かれたように、この本を多くの日本人に読んでもらう必要があると思ったからだ。(その後増刷され13000部発行)


この本は、1986年4月26日未明に起きたチェルノブイリ原発事故の被害にあった子どもたちが書いた作文集である。

チェルノブイリ原発の爆発によってまき散らされた放射能は地球全体をおおったが、原発の風下にあったベラルーシ共和国には、放射性物質の70%が降り注ぎ、たくさんの「死の町」、「風下の村」が生まれた。後になってわかったことだが、遠く300キロも離れた町でさえ、チェルノブイリ周辺と同じように強く汚染されていた。作文を書いたのは、これら「風下汚染地」に生まれ、生きてきた子どもたちである。

作文コンクールは「私の運命の中のチェルノブイリ」というテーマで、1994年3月から4月にかけて行われた。実施したのは、ベラルーシ社会エコロジー同盟「チェルノブイリ」というベラルーシの民間支援団体である。また、作文を募集するにあたっては、ベラルーシ教育省の全面的な協力と援助を受けている。

呼びかけに応え、寄せられた作文の数は500編を越えた。ベラルーシでは、これらの作文のうち優れたもの100編を収録して、「黒い雨の跡」という単行本が出版された。

作文を書いたのは、主として中等学校(11年制で、6歳から16歳までの子どもが学ぶ)の高学年の生徒たちである。事故が起きた時、彼らはまだ幼く、なにが起きたのかを正確に理解することができなかった。そんな子どもたちに襲いかかった悲しみや苦悩が、一人ひとりの体験として綴られている。

たった一回の原発事故がいかに多くの人々の運命を変えてしまったことか。だが、絶望や悲しみだけではない。取り返しのつかない悲劇を引き起こしてしまった無責任な大人たちを鋭く告発しながらも、自分たちとこれからの世代に希望をつないでいる。

日本語版では、これらの作文のうち50編が収録されている。この50編を選ぶに際し、ベラルーシの子どもたちと同世代の日本の中高生に、作品を選ぶ作業に加わってほしいと呼びかけた。この呼びかけに対し、全国からたくさんの中高生が協力を申し出てくれた。この本は、ほとんど彼らが選んだ作品で構成されている。

★本の注文先

解説から抜粋

 あの日の青空の美しさ・・・・・・が、それを見ているはずもない私の心にもひろがって、色あせようとはしない。
 あの日というのは、1986年4月26日のことである。その日ベラルーシは夏を感じさせるほどの暑さで、空は青く澄みわたって人々を戸外へと誘っていた。
 のちに、その日が自分たちの運命を一変させた日であったと知ったとき、もう二度と仰ぐことのできない故郷の『無垢な青空』として、ベラルーシの人々の心に焼きついたのだろう。本書の手記で幾人もが『あの日の青空』を切ないまでに美しく語っているのは、そのためである。
 
 日本でこの原発事故の詳報が伝え始められたのは4月27日の夜のテレビ報道からで、私は事の重大性に愕然としてしまった。恐れていた最悪の事態が起きてしまったのだと思うと、身体が震えた。新聞社からコメントを求められた私は、「今回の放射能雲の驚くべき拡がり方をみますと、原発を核の平和利用といういいかたで核兵器と区別しようとする考え方が、まったく無意味だということが恐ろしいまでに証明されたと思います」と、口早に答えたのだった。興奮していたのだ。

 5月4日には早くも日本の各地で放射性ヨウ素131が検出され、それが報道されると乳児を抱く若い母親は不安にさいなまれた。

 ヒロシマ・ナガサキの被爆体験を持つ日本では、原水爆禁止を求める国民的運動が戦後一貫して高まりをみせてきた。だが、そんな反核の潮流の中でも、「原子力発電は核の平和利用なのだから」という理由で反対対象から見逃されてきたというのが実情で、狭い日本列島にあっという間に原発は増えていった。

 実は核爆弾も原発も本質的には同じなのだということを、無惨なまでに実証してしまったのがチェルノブイリ原発事故なのだ。核の平和利用などという幻想は一挙に吹き飛んでしまったと知らねばならない。

 ここで、科学者でもなんでもない私がおおざっぱな(しかし本質的には間違っていない)理解で少し解説的なことに触れるが、核爆弾も原発も、原子核の分裂によって発生する熱エネルギーを利用しているという点では、まったく同じだといえる。

 ウラン235という原子核に中性子がぶつかると、原子核は2つに割れ、そのとき大量の熱エネルギーを放出するが、同時にあらたに2個ないし3個の中性子も飛び出してくる。そして、飛び出したそれぞれの中性子がまた次の原子核に衝突すれば、そこでも核分裂が起きて熱エネルギーと2個ないし3個の中性子が飛び出して、その中性子がまた・・・と、ネズミ算式に核分裂の「連鎖反応」が起きることになる。ほとんど瞬時に突っ走るこの連鎖反応を一気に解放して灼熱の火の玉を発生させるのが核爆弾である。

 一方、原子炉の中では、ネズミ算式の核分裂の連鎖反応が起きないように、飛び出した余分な中性子を吸い取ることで核分裂を「制御」し、ゆっくりした核分裂から安定した熱エネルギーを取り出し、それで電気タービンを回転させる蒸気を発生させている。

 そこで、もしその「制御」がなにかの理由で失敗したらどうなるかということを、あなたは心配しないだろうか。チェルノブイリ4号炉で起きたのが、まさに「制御」の失敗だったのだ。秒単位で核分裂が暴走し、その結果猛烈な高熱が発生して蒸気爆発、水素爆発を誘発し、建屋をも破壊して炉内の大量の放射能を大気中に噴き上げてしまった。

 先に、原子炉に中性子がぶちあたると2つに割れると書いたが、このかけらが「死の灰」と呼ばれる放射能で、したがって運転中の原子炉の中にはおびただしい「死の灰」がたまっていくことになる。100万キロワットの原発が1日運転されると、炉内には3キログラムの「死の灰」が発生するが、これは広島に落とされた原爆3発分の「死の灰」に相当するというのだから、すさまじい。1年間稼動した原子炉内には広島型原爆千発分の「死の灰」がたまることになる。チェルノブイリ原発4号炉から噴き上げた「死の灰」の量がどれだけかには諸説があるが、広島型原爆五百発分に相当するという専門家もいるし「死の灰」とは放射能であり、一口に放射能といってもいろんな核種が含まれていて、核種ごとにその毒性の強さも人体への作用も違うし、その毒性が持続する時間もそれぞれに異なる。20年も30年もたってようやくその毒性が半減するという超猛毒である。わずか1グラムが18億人分の摂取限度(年間)にあたるといわれる。

 したがって、チェルノブイリ原発から噴き上げられた「死の灰」によって汚染された地球は、もはや1986年4月26日以前の地球には還れないのだ。その結果、至近距離で「死の灰」を浴び、避難したとはいえやはり汚染から逃れられない土地で暮らさねばならない人々は苦しみのどん底にある。

 チェルノブイリの事故は、「原発をやめるべきだ」という天の声ともいうべき人類への警告であったのではないか。それを知らせるために選ばれた「殉教者」がベラルーシをはじめとする周辺被曝者なのだと思い至れば、世界中のとりわけ原発先進国が支援の手を差し延べる義務を持つのは当然としなければならない。

 さすがに、世界各国は震撼として原発政策からの後退を始めたが、日本政府は「日本の原発技術は卓越している」と過信して、いまや世界でも突出してしまった原発推進政策を改めようとはしない。先の兵庫県南部地震によって、日本の技術神話など吹き飛ばされたというのに。

 ベラルーシの少年少女たちが紙背に涙をにじませて綴った本書を、一番心して読むべきは私たち日本人でなければなるまい。

松下竜一


作文集『わたしたちの涙で雪だるまが溶けた』の朗読
作文集の朗読(※一部抜粋)を、映像とともにご覧いただけます。

「母のもとに六人残った」(エレーナ・メリニチェンコ)
 ▲ NHK-BS放送「チェルノブイリ診療日記」より抜粋

「母と私と祖母の友人」(ガリーナ・ロディチ)(吉永小百合さんの朗読)
 ▲ ストップ・ザ・もんじゅ制作
  『高速増殖炉もんじゅ 明かされた真実』より抜粋

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