作家の片山恭一さん 玄海原発差止裁判で、「愛をさけぶ」

「世界の中心で、愛をさけぶ」を書かれた作家の片山恭一さんが、昨日の玄海原発差止裁判で、「魂の意見陳述」をされました。一人でも多くの人に伝えたいメッセージです。

まさに片山さんは今、「愛をさけんでいます」

2012年12月7日

原告 片山恭一

私は文筆を生業とする者で、主に小説を書いています。学生のころから、核兵器を含め核エネルギーという人間の技術にたいして、心情的な嫌悪と反発を感じてはきましたが、かといって積極的に反対してきたわけではありません。

原発の安全性についても、多くの日本の国民と同じように、福島の事故が起こるまでは、ほとんど無関心であったと言っていいのです。そのことを強く後悔しながら、いまあらためて核エネルギーについて考えようとしています。

福島の事故が起こってまず思ったことは、私たちは歴史上はじめて、未来の者たちから憎まれ、蔑まれる先祖になったのかもしれない、ということです。

私たちは子どものころから、先人たちを敬い、感謝することを教わってきました。そうした教えは、実感ともずれていなかったと思います。この暮しは、昔の人たちが連綿として培い、築き上げてきてくれたものの上に成り立っている。そう素直に信じることができたのです。

しかしいまや、状況はすっかり変わってしまったと言うほかありません。未来の者たちが私たちにたいして抱く思いは、敬いでも感謝でもなく、「なんということをしてくれたのだ」という、恨みとも憎しみとも蔑みともつかない、やり場のないものではないでしょうか。

原子力発電は、ウラン鉱の採掘からウラン燃料の濃縮、発電に至るまで、すべての過程で多くの放射性廃棄物を産出します。

高レベル放射性廃棄物の場合は、深度三百メートル以上の地層で数万年以上にわたって管理する必要があるとされています。これは「地層処分」と呼ばれ、現時点では唯一の最終処分法と考えられているものです。ノルウェーでは、一億八千万年間動いてないことが確認されている花崗岩の岩盤に、深さ五百メートルの地下施設を作って、最終処分場にしようという計画が進んでいるそうです。しかし地殻変動の活発な日本では、このような地下処分は不可能でしょう。そこで今後、五十年から数百年にわたって暫定的に保存し、そのあいだに最終処分法を考えようという案が浮上しています。

「最終処分」と言うのだそうです。放射性廃棄物の最終処分……どこかナチスのユダヤ人絶滅政策を連想させないでしょうか。「最終処分」というプロセスを伴っていることが、すでに決定的に間違っているのではないか。そう考えてみるべきではないでしょうか。地中から取り出したウラン鉱石をエネルギーに利用し、その廃棄物を最終処分する。それが地球を、あるいは世界そのものを最終処分することにならなければいいと思います。

いったい誰が、どのような権利があって、こんなことをはじめたのでしょう。五十年から数百年にわたって暫定的に保存すると言っても、数百年先のことなど誰にもわかりません。日本という国はなくなっているかもしれないし、人類だってどうなっているかわからない。ほとんど人間が生存するかぎり管理しつづけなければならないものを、私たちは現在の自分たちの生活のためだけに作りつづけています。たった半世紀ほどのあいだに繁栄を謳歌した、地球上のごく一部の人間が、この先数万年に及ぶ人間の未来を収奪しつつあると言っていいのではないでしょうか。

いくらノーベル賞級の知性を結集したと言っても、私たちのやったこと、やりつづけていること、将来もやりつづけようとしていることは間違いなく浅知恵です。人間は技術的に高度化すればするほど、深刻な浅はかさにとらわれていく。一流の頭脳をもった人たちが一生懸命にやっていることを集積すると、ほとんど人間性を根底から否定してしまうほどの、巨大な愚かしさが立ち現れてしまう。そういう恐ろしさ、忌まわしさが人間の技術にはある気がします。

数十年先、数百年先には、核にたいするテクノロジーは格段に進歩しているかもしれない。原子力発電所は安全に運転されるようになっているだろうし、核燃料サイクルは確立されているだろう。「死の灰」を無毒化する方法も見つかっているかもしれない……そのように考えることが、まさに浅知恵なのです。

本当の「知恵」とは、未来の者たちにより多くの選択肢をもたらすことではないでしょうか。核エネルギーの研究や開発をつづけるかどうかは、あくまで未来の人たちが判断することです。これまでに生み出された放射性廃棄物を処理するためだけにも、彼らは否応なしに、核エネルギーの問題に取り組みつづけなければならない。このことをとっても、すでに私たちは、既定の未来を彼らに押しつけているのです。将来に不確かな期待をもつことは、さらに彼らの未来を収奪しつづけることになるでしょう。

数万年以上にわたり貯蔵・保管しなければならない物質を生み出すような技術を、過去に人間はもったことがありません。この厄介な物質をどうするかということは、私たちがはじめて考えなければならないことです。ここに原子力発電という技術に伴う、大きな倫理的空白が生じているのです。この空白に付け入ってはならないと思います。それはかならず大切な人間性を損ない、私たちをいかがわしい生き物にしてしまいます。

最後に、私がたずさわっている文学の話をさせてもらいたいと思います。文学とは本来、人間の可能性を探るものです。人間はどのようなものでありうるか。小説とは、それをフィクションという設定のなかで問うものだと、私は考えています。

核エネルギーとともにあることで、私たちは人間の可能性を探ることができなくなってしまいます。なぜなら核廃棄物という、自分たちに解決できないものを押しつけるというかたちで、私たちは数万年先の人間を規定し、彼らの自由を奪ってしまっているからです。

少なくとも私のなかでは、核エネルギーの問題を放置して小説を善きつづけることは、自らの文学を否定してしまいかねない矛盾と欺隔を抱えることになります。これが原子力発電所の廃絶を求める裁判に、私が参加しているいちばん大きな理由です。

自分はいかなる者でありうるか、ということをあらためて考えたいと思います。私たちが個人でなしうることは、一人の人間の身の丈を、それほど超えるものではありません。しかし私たちが「こうありたい」と望むことは、過去と未来を貫いて、人間全体を眺望しうるものです。

そのような眺望をもって、自分の死後に生まれる者たちと、どのようにかかわるか、いかなる関係をもちうるか。それが経済や暮らしとはまったく次元を異にする、人間の自己理解の根本にある問題です。

過去を健全に引き継ぎ、歪曲されない未来を受け渡していこうとすることによって、私は自らが望むべき者でありたいと思います。そして私たち一人一人の人間性を深刻に損なってしまう原子力発電からの速やかな離脱を、この裁判をとおして強く訴えたいと思います。

以上、意見陳述を終わります。

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